佐渡島での想い出 ⑦
佐渡島で最後に訪れたのは、『トキの森公園』でした。
トキのポストがかわいい↓
私はこれまで生きてきて、トキを一度も見たこともないし、トキの生態についてもほとんど知らない事に氣づきました。
そう、絶滅してしまったと言うことしか。。
国の特別天然記念物で国際保護鳥に指定されている「朱鷺(トキ)」。
「Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)」という学名をもつように、かつては日本の各地で見られた鳥なのです。
それが明治時代の狩猟や生息環境の悪化に伴い個体数が激減。
戦後、佐渡島内でもあらゆる取り組みを行ってきましたが、生息数はしだいに減少していきました。
手前真ん中がトキの卵↓
その後、日本におけるトキの最後の生息地となった新穂地区(旧新穂村)にトキ保護センターが設置され、人工繁殖が試みられました。
捕獲された数羽の日本のトキでは成功しなかった繁殖ですが、野生のトキが生息していた中国から1つがいのトキが贈られたことにより、待望のヒナ「ユウユウ」が誕生。
一度は絶滅に至ったトキですが、現在では約500羽以上が野生で再び佐渡の大空を舞い、自然繁殖による個体数の増加も実現しているそうです。
最後の1羽のトキ「キン」の剥製↓
『佐渡トキ保護センターで飼育されていた日本トキの最後の1羽「キン」(雌)が2003年10月10日午前7時20分ごろ、死んでいるのが見つかった。
推定36歳、生存期間は世界最長、人間なら100歳以上に匹敵する。
死因は老衰とみられる。日本を象徴する国際保護鳥だった国産種のトキはこれで絶滅した。。。』
こちらから抜粋します↓
⭐️宇治金太郎さんと最後の1羽「キン」との物語
1968年、一羽のトキの幼鳥が佐渡島の真野の地に迷い出てきました。
当時、野性下のトキの数は減り続け、能登に1羽と、佐渡に1つの群れが残るのみで、絶滅が目前という状況でした。
幼鳥は、その群れから逸れてしまい、真野までやってきたのです。
その前の年には佐渡トキ保護センターが開設され、人工繁殖の試みが始まったばかり。
当時はトキの生態の全容も分からず、飼育は難航していました。
真野町は環境庁の指示を仰ぎ、トキの観察と餌付けを試みる事にしました。
そして「野鳥の会」の会員と言う理由で、地元の公民館の館長を務めていた、農家の宇治金太郎さんにトキの監察員を依頼しました。
実は宇治さんはそれまで、本物のトキを見たことは無かったそうです。
宇治さんは毎朝、同じ服を着て、何キロもの道のりを歩きトキの元を訪れ「コーイ、コイコイ」と掛け声をかけました。
最初は遠くから、少しづつ距離を縮めていき、餌のドジョウを与えました。
最初は警戒していたトキも、宇治さんにだけは心を開くようになりました。
宇治さんの「コーイコイコイ」という声を聞くと飛んできて、宇治さんの姿を見つけると、足元に降り立ち、宇治さんの手のひらから直接、餌をついばむようになりました。
宇治さんも「トキ子、トキ子」と呼び、我が子のようにかわいがりました。
ここまで野生のトキと心を通じた人は、それまで他には居なかったのです。
その年の冬は豪雪に見舞われました。
トキ子を心配した宇治さんは、奥様と一緒に天候が悪い中トキ子を探し回り、無事を確認するととても安堵されました。
真野に環境庁が派遣した捕獲班がやってきました。
「トキ子」をこのままにしていると死んでしまう危険性が高いため、捕獲して人工繁殖を行うことになったのです。
しかし、無双網で捕えようと近づいてくる捕獲班を「トキ子」は警戒し逃げてしまいます。
その度に宇治さんは、「トキ子」との信頼関係を作り直しました。
それが何度も繰り返され、結局捕獲は失敗しました。
捕獲班は真野町に、「トキ子」を捕獲するよう指示して、引き揚げて行きました。
困った町は、宇治さんに「トキ子」の保護を依頼します。
宇治さんも、保護しなければ「トキ子」が生きていけない事を理解していました。
それでも「俺の事を信頼しているトキを捕まえる事は出来ない」と、決心がつかなかったのです。
しかし、季節が冬から春に向かっていきます。
天敵の鷹やカラス、野犬なども動き出します。
「トキ子」も成長し、移動範囲が広くなり監視しきれなくなってきました。
さらに春になれば、農作業が始まり、田畑には農薬も散布されます。
このまま保護しなければ、「トキ子」は夏まで生きてはいられない事は決定的でした。
3月のある日、「トキ子」がいつも現れる餌場に姿を見せなくなりました。
必死に「トキ子」を探し回る宇治さん。
真野町教育委員会の職員達も、職務を放り町中を探し回ります。
ようやく見つけたのは、普段居た地から7キロも離れた場所でした。
悩みに悩んだ末、宇治さんはついに「トキ子」の捕獲を決断します。
いつものように、「トキ子」は宇治さんの元に降り立ち、餌をもらった後、宇治さんに寄り添うように座りました。
宇治さんは「トキ子」を、優しく抱きかかえるように、捕獲しました。
「トキ子」は、騒いだり抵抗したりせず、じっと動かないまま、ただ小さな声で「クヮー」っと鳴いたそうです。
その時、宇治さんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていました。
「俺は世界一の裏切り者」
当時、トキの人工飼育技術はまだ確立されておらず、保護センターで飼育し始めたトキが次々に死んでしまう状況が続いていました。
宇治さんは「トキ子」を保護した直後、保護センターのトキが1羽死んだという知らせを聞かされます。
この段階で、人工飼育されたトキ5羽のうち4羽が死んだのです。
宇治さんは『車の窓を開けて「トキ子」を逃がしてやろうか』と思ったそうです。
宇治さんは、自身の手で「トキ子」の自由を奪ってしまった事を生涯悔やみ続けました。
あまりに落ち込んでいる宇治さんを見かねて「もし捕獲しなかったら、今頃野犬に襲われて死んでしまってたかもしれんちゃ」と励ますも、「・・・自分は世界一の裏切り者ですっちゃ・・・」と答える事しかできなかったのです。
歳老いた体に鞭を打つように、毎月、宇賀神様の593段ある石段を登り、泊りがけで「トキ子」の長寿と子孫繁栄を祈願し続けました。
亡くなる直前のうわ言でも、「トキ子」の事を氣にかけていたと言われています。
トキ保護センターに移送された「トキ子」は、宇治金太郎さんの名前から一字もらい「キン」と名付けられました。
飼育に当たったのは、初代佐渡トキ保護センター長の近辻宏帰さん(故人)です。
1981年、佐渡に残っていた最後の5羽が保護され、佐渡トキ保護センターに移されました。
この時、野生下のトキは全て姿を消したのです。
(中国・洋県でトキが発見されたのはこの数ヵ月後の事でした)
子孫こそ残せなかったものの、宇治さんの願いが通じたのか、「キン」は生き続けました。
他のトキが病氣や事故、寿命で逝ってしまう中、最後の一羽になっても「キン」は生き続けました。
幼鳥から老齢期に渡った「キン」の永年の飼育記録は、その後の中国・洋県のトキ人工繁殖におおいに役立てられました。
1999年、中国からトキのつがいが贈られてきます。
翌年には雛が誕生し、やがて保護センターのトキの数も増えてきました。
数年後には25羽を超え、一度は絶滅したトキの「復活」が現実味を帯びてきたのです。
同時に佐渡では、トキとの共生を見据えた“環境づくり”が進められました。
2003年10月、仲間が増えた事を見届けたように「キン」はその長い生涯を閉じました。
推定年齢36歳、トキの飼育記録としては最長、鳥類としても異例の長寿でした。
晩年は一日ほとんど動くことが無かった「キン」ですが、その日の未明、突然羽ばたき、高く飛びました。
そして、天井に激突してしまったのです。
「キン」が、何を思って突然飛ぼうとしたのか、何処へ行こうとしたのか、それは誰にも分かりません。
でも、きっと天国で大好きな宇治さんと再会したのでしょう。
<抜粋終わり>
宇治さんは、1984年、80歳の生涯を閉じたそうです。
私も、最期にキンがいきなり飛んだのは、宇治さんが天国から呼んだんじゃないかな?と思いました。
キンがなついた飼育員のお話も是非読んで下さいね↓
今、こうしてトキが日本で繁殖できているのも、「キン」が1羽だけになっても長生きしてくれたおかげなのだそうです。
その間に、トキの繁殖技術と環境づくりが確立し、タイミング良く中国からのトキを受け入れられたのです。
ゲージの外から、元氣なトキたちを見ることが出来ました。
佐渡島のトキを初めて見ることが出来て、嬉しかったです。