Quantcast
Channel: misaのブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4070

⑦-5 翡翠の仮面を被せられていたパカル王の石棺「パレンケ博物館」

$
0
0
メキシコスピリチュアルツアー・パレンケ編最終話です。

「パレンケ遺跡」をまわった後、最後に私たちは遺跡そばの「パレンケ遺跡博物館」へと入りました。

館内で最初に出迎えてくれたのは、こちらのお方⬇︎

これが何かはその時は分からなかったのですが、どうやらこれは香炉のようです。


その次に目に止まったのは、鳥の被り物をつけた坐像でした。玉座に座っていることから、王さまかも知れません。


こちら⬇︎の見事なレリーフは、神殿19の内部を飾った本物の柱で、複製は神殿にあるそうです。パカル2世の青年時代の姿だそうです。


たくさんの大型香炉が展示されていました⬇︎

これらの香炉は、「十字グループの神殿群」から発見されたもので、古代マヤ人は20年に一度
古い香炉を集めて埋葬していたそうです。


古代マヤの信仰では、世界は『神々の棲む天界』『人々の生活の場の地上界』及び『死後の世界の地下界』に分けられており、太陽は朝、地上に顔を出して天に昇り、夜は地下界に隠れます。



古代マヤの人々にとってこの太陽の永遠の運行が非常に重要で、その為に香を焚いて神々に永遠の太陽と豊かな生活の為の豊穣を祈る事は欠く事の出来ない祭事であり、パレンケではこうした祈りに用いられたのが装飾大型香炉だったのだそうです。



台座の上にある火鉢で、植物の樹脂や血液、トウモロコシ等の神々への捧げ物が燃やされ、火や煙の形で軽くなった捧げ物は天の神々に届き、神々は 地上に降りて香炉の中に宿ります。



その為に香炉の円筒は中空になっており、放血儀礼で得られた血は太陽の永遠の命を、食べ物に捧げられたトウモロコシは人々の生活の豊穣を祈念しているそうです。


これらの香炉も、地下界から天界へと伸びるマヤの「世界樹」を表わしていていると言うから驚きです。


確かに、1番下には「地下界」の生き物、そして1番上には「天界」の鳥などが置かれています。



この立像は、「十字グループの神殿」広場にあったもので、バラム2世の姿を表しているようです。


壁のレリーフが多い中、立体的な石碑は非常に珍しいのだそうです。


こちら⬇︎は、複製ですが「赤の女王の仮面」だそうです。翡翠ではなく、緑色の孔雀石(マラカイト)で出来ています。



そして、ここからは博物館の目玉とも言える超有名なパカル王の石棺のコーナーになります!!


「パカル王の石棺」は、本物は「碑文の神殿」の中に封印されてしまったのですが、「石棺の複製」が2ヶ所、メキシコシティの「国立人類学博物館」と「パレンケ遺跡博物館」に置かれています。


こちらは「人類学博物館」の方⬇︎


パカル王⬇︎



「人類学博物館」の石棺は、上から見下ろして横の通路から少し覗くだけしか出来ないそうですが、「パレンケ博物館」の複製は石棺の周りを歩いて一周出来るのです⬇︎



この石棺は、縦3m、横2.1m、高さ1.1m、重さは5トンにもなる1枚岩をくりぬいた巨大なものでした。


そして、その「石棺の蓋の絵」がとても有名になったのでした。


一時は、「操縦桿を握る宇宙飛行士の絵?!」と世間を騒がせたのです。





◆ 石棺の蓋の絵は「世界樹」


けれど、このレリーフは「宇宙飛行士」ではなく、マヤの「生命の樹」を表したものだったのです。




レリーフの詳細を、Google翻訳の写メで撮ってみました⬇︎




それから、墓室の壁面には「9人の夜の支配者」と呼ばれる9名の人物像が彫られていたそうで、「パレンケ博物館」では、石室を透明な板で表しているので、彼らは白い絵で描かれています。



戦士の姿で表現されている彼らは、地下世界の番人だそうです。


当時、人間は死後、9層から成る地下世界に行くものとされていた為、9人の番人が亡くなったパカル王を永遠に守っていたのでした。


右手に盾、左手に笏(しゃく)を持った戦士の姿⬇︎



また、石棺の壁面には、王の両親を含めた10人の歴代王(先祖)が彫られています。



歴代王の胴体は地面から生えるように描かれ、背中からはそれぞれ異なる種類の実のなる木が出ているのでした。





パカル王がつけていた「翡翠の仮面」⬇︎は、現在「人類学博物館」に保管されていて、残念ながらここでは見れなかったのですが、値段がつけられないほどの貴重な発掘品と言われたこの仮面は、過去に「国立人類学博物館」からヘリコプターを使った大掛かりな窃盗団によって盗まれてしまった事があったそうです。

取り戻せて良かったですね。



王の顔に漆喰などを塗り、その上に埋め込むようにしてマスクを形作ったと考えられています。


発見当時は、翡翠はバラバラになっていて、それを丁寧に組み合わせて現在の仮面になったそうです。



マヤでは当時、翡翠は黄金より貴重なもので、王は口の中に翡翠の玉を含み、手には翡翠の玉を握り、全ての指に翡翠の指輪をしていたそうです。



王の石棺がおさめられていた墓室は、通路を埋め尽くしていた石を4年かけて取り除いた結果、地下深くに発見されたそうです。




この巨大な石棺を神殿から地下に運び込むことは不可能であるので、まず墓室を先に作り石棺を配置した後、神殿を建設したと考えられています。


この「碑文の神殿」は、パカル王の跡を継いだ息子カン・バラム2世の時代に完成したのです。


余談になりますが、中山康直さんが臨死体験で興味深いものを見て来たようです。


日本に役小角(えんのおづぬ)という修験道の開祖がいたことは有名ですね。役行者とも言われます。



この役小角は699年に伊豆大島に流され、701年にやっと幽閉を解かれたそうです。


自由の身となった役小角は、その後、南米パレンケに渡ったのではないかと中山さんは考えているようです。


そこで、役小角パカル王が出会ったと。


パカル王⬇︎



役小角と言えば、神宮大麻歴を中心とした暦のマスターでした。


この「神宮大麻歴」は、20年に一度、社を変えるという式年遷宮のサイクルにも密接に関係しており、自然や宇宙のサイクルに通じる非常に優れた暦なのでした。


「20年に一度」でピンと来た方、香炉「20年に一度」ごとに埋葬されていたではないですか。


その概念は、もしかして役小角がもたらしたもの?


一方、パカル王暦を超えたリズムやテンポ、地球のサイクルや宇宙のサイクルを熟知する人物でした。


ふたりは、お互いの知識を掛け合わせ、それらを組み合わせて、マヤ暦に反映させたようです。


しかし、その後パカル王は若くして30歳頃に亡くなってしまった為、役小角がパカル王にすり替わったと中山さんは推理します。


そして、石棺に入っていたのはパカル王ではなく、役小角である、と。


パカル王が80歳と長寿だったのは、途中から役小角が王にすり替わったからで、彼は素顔を隠す為に翡翠の仮面をつけていたのではないかと。


もしかしたら、鳥の被り物をつけていた人物も役小角だったのかも知れませんね。


パカル王は、赤いふんどしをつけていたし。。


中山さんが、臨死体験で見たものですから、案外そうだったりして。


興味は尽きません。


長くなりましたが、パレンケ遺跡を訪れることができ、複製であっても「パカル王の石棺」を自分の目で確かめる事が出来て、本当に良かったです。


これにて7つのチャクラを巡るマヤ遺跡ツアー報告は全て終了いたしました。


長いことお付き合いくださいまして、ありがとうございました!


◆ ① X'bantun セノーテ

◆ ① 第1チャクラ「ウシュマル遺跡」

◆ ① 忘れられない夜

◆ ② チョコ博物館 第2チャクラ「ラブナ遺跡」

◆ ② 第3チャクラ「カバー遺跡」

◆ ③ 第4チャクラ「チチェンイツァ遺跡」

◆ ③ ククルカンの神殿

◆ ③ バランカンチェ洞窟

◆ ④ セノーテ・ドス・オホス

◆ ④ 第5チャクラ「トゥルム遺跡」

◆ ⑤ バカラル湖

◆ ⑤ 第6チャクラ「コフンリッチ遺跡」

◆ ⑥ バラムク遺跡

◆ ⑦ 第7チャクラ「パレンケ遺跡」

◆ ⑦ パカル王の石棺 翡翠の仮面

◆ ⑦ 十字グループの神殿群

◆ ⑦ 十字の神殿と滝



メキシコを2度にわたり訪れて分かったことは、私はエジプトよりもマヤのピラミッドの方が好きと言うことでした。


そして、今回、マヤ遺跡の中で1番良かったのは、第三の目のチャクラ「コフンリッチ遺跡」でした。


おそらくメンバーのみんなも同意見かと思います。


ジャングル全体が私たちを優しく迎え入れてくれた遺跡でした。不思議なワンチャンのガイドがいた所です。





7日間にわたり、7つのチャクラ7人巡るという本当に素晴らしくてマニアックなマヤスピリチュアルツアーでした。


主催のトビーさんご夫妻に感謝です。


ありがとうございました。


おわり。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 4070

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>