エジプト訪問記がアビドスからなかなか抜け出せないのですが、「セティ1世葬祭殿」の奥には、さらに最も重要な遺跡が存在しているのです。
それが、「オシレイオン」。
その遺跡は、葬祭殿の「王名表」(18番)の通路を通り抜け、西の通廊(17番)を出た右手にあります。
西の通廊を出たところ⬇︎
ご覧のように、この遺跡は「セティ1世の葬祭殿」の床の高さよりも15mも下にあるのです。
こちらも私たち以外、誰もいませんでした⬇︎
さらに、この遺跡は葬祭殿とは全く違った建築様式になっています。
地面から下に掘り出された長さ30m、幅18mの巨大な構造物は、エジプトの最大級の花崗岩が使われており、重さ50〜60トンはあろうかと思われる10本の巨大な一枚岩の石柱が、両側に立ち並んでいます。
そして、たくさんのレリーフで埋め尽くされた葬祭殿と違い、内部に装飾は全く見当たりません。
これが何を意味しているかお分かりになるでしょうか?
そう、この遺跡は「セティ1世の葬祭殿」よりも古い年代に造られたものだという事です。
ギザのピラミッドの東側にある「河岸神殿」に非常によく似た造りになっている事も興味深いことです。
かつては、この建物を覆っていた花崗岩の屋根があったようです。
そして、発掘した人が驚いたことに、この建物には床がなく、地下水が湧出していたのです。
また、オシレイオンは真北を向いていない事も大きな特徴です。
エジプトの古代文明は正確な方位で建物を建てることが出来たにもかかわらず、真北の少し東を向いているのです。
それは、メキシコのテオティワカンの死者の道と同じなんだそうです。
しかし、セティ1世の葬祭殿もオシレイオンと同じ方位で建てられていたり、セティ1世の名前が刻まれた装飾や碑文が、壁の外側や天井のごく一部に存在することから、考古学上ではこのオシレイオンもセティ1世が造ったものだとされています。
ところが、セティ1世の葬祭殿には他の建築物とは違う特徴があるのでした。
通常、エジプトの神殿は長方形になっているのですが、セティの葬祭殿はL字型をしています。
こんなL字型の神殿は、エジプトの他のどの神殿にも見られません。
なので、この葬祭殿のプランは建設途中で変更されたのではないかと。
つまり、途中で基礎の下に重要な物が発見された。。
東から順に西方向に建築していくと、「オシレイオン」の上を通過することになります。
発掘された「その場所」が、オシリスの頭が埋められている神聖な遺跡と知り、彼らは途中で計画を変更し、L字型にせざるを得なかったのではないかと思われるのです。
オシレイオンに似た建築物は、河岸神殿とギザのその他の巨大石の建造物以外に、エジプトの長い歴史上どこにも存在しないそうです。
どうやらこうした巨大な石で造られた、わずかな数の建造物は、他に例がない特殊な部類に入るようです。
つまり、私たちが考えつかないような大昔の遺物。
その年代は、今から1万5千年以上前まで遡るとも言われています。
そして、この「オシレイオン」には、これまた特別なものが印されているのです。
この矢印の場所を拡大します。
見えますか?巨大な柱に何と、神聖幾何学「フラワーオブライフ」が印されているのです。
その精緻な図形は、刻まれたものではなく、花崗岩に驚くべき精度で焼き付けられたか、レッドオーカーで描かれていると言われています。
レッドオーカーとは、粘土とシリカを少量含んだ酸化鉄を組成とする赤褐色の天然顔料で、アメリカインディアンもこれを使用していました。
この図形は、ファラオの権威のシンボルであるラーの目を表すとも考えられていますが、これが建造当初からあったものか、後から付け足されて描かれたのかは未だ解明されていません。
この神聖幾何模様「フラワーオブライフ」は、世界に存在している物質の元となっている形、森羅万象や生命の根源、生命のサイクルを現している形とされています。
本当に貴重なものを見れました。
オシレイオンの地下水は、見た目あまりキレイとは言えませんでしたが、オンムセティはこの水で自らの目や虫垂炎を治したり、子どもたちのてんかんなどを治したりしていたそうです。
この水にそんな不思議な力が?⬇︎
今回、下までは行けなかったですが、水さえも謎がある興味深いオシレイオンでした。
アビドスで最も重要な聖なる場所「オシレイオン」!
ここを訪れないでアビドスは語れません。
是非行かれてみて下さい。