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北海道という命名に込められた想い

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昨日の「義経とアイヌ」のお話と共に、アイヌの方から北海道と名付けられたいきさつをお聞きしました。

北海道は、縄文の時代には「アイヌモシリ」と呼ばれていました。

「アイヌ」は「人間」という意味で、「アイヌモシリ」とは「人間の静かなる大地」という意味になります。

神の大地を意味する「カムイモシリ」に神は住んでおり、動物などに姿を変えて人間の大地「アイヌモシリ」にやってきて恵みをもたらしてくれるとアイヌの人々には考えられていました。

動物たちの中で最も重要な神とされたのは「シマフクロウ」です。

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翼を広げると2メートルもある大きなフクロウは、コタン(集落)を守ってくれる神「コタンコロカムイ」として大切に扱われて来ました。

「ヒグマ」(キム二カムイ)はアイヌ民族にとって肉や毛皮などの恵みを与えてくれる大事な神であり、その大いなる恵みに深く感謝するとともに、魂を神の世界へと大切に送り届け再び恵みをもたらしてくれるよう祈りました。

こうしたヒグマの魂を神の世界へと大切に送り届ける儀式は「イオマンテ」と呼ばれています。

その後、アイヌモシリは「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれるようになりました。

アイヌ民族は、日常生活の中で自然の恵みを神に感謝し、動物や植物は自分たちの食料として必要な分しか取りません。

その一方で、蝦夷地へと進出した和人は大きな網を使って遡上する鮭を根こそぎ取りつくすなど、アイヌ民族の生活を脅かすようになり、争いに発展することもありました。

まず「コマシャインの戦い」が起きたのは、14世紀の室町時代後半のことです。

この時代になると、徐々に蝦夷地に渡ってくる和人が増えるようになり、それにつれて和人とアイヌの人たちとの争いごとも増えるようになりました。

1456年、アイヌの青年が和人に殺害された事に端を発します。

当時、和人はアイヌにはなかった製鉄の技術があり、アイヌ人は鉄製品を和人の不当なやり方で購入せざるを得ませんでした。

このアイヌの青年は和人に注文したマキリ(小刀)の切れ味や値段のことで和人と口論となり刺殺されてしまったのです。

この事件が原因で翌年、アイヌ東部の首長コシャマインのもと和人に対しアイヌは蜂起しました。

かなり和人に苦戦を強いるも、最終的には花沢館の武田信広にコシャマイン父子は討たれて敗北しました。

元々暮らしの習慣が違うアイヌの人たちと和人との間には、いざこざが起きても仕方ありませんでした。

和人は、松前藩の支配の元、アイヌの人たちから鮭や砂金などアイヌの人たちの暮らしの基盤となるようなものを不当な取り引きで奪って行きました。

やがて、アイヌの人たちの間に徐々に不満がたまっていき1669年「シャクシャインの戦い」が勃発します。

戦いの先頭に立ったのがアイヌの指導者シャクシャインです。

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「松前藩を追い払え」を合言葉に徐々に戦いは大きくなっていき、 273人の和人が殺されました。

勇敢なシャクシャインをみて松前藩は、戦いの長期化を恐れシャクシャインらへ和睦を申し入れました。

シャクシャインは一度その提案を断ったのですが、アイヌの現状を考えて和睦に応じたのです。

しかし、松前藩はシャクシャインらが酒に酔ったのを見計らい殺害してしまいます。

リーダーを失ったアイヌ民族は、これまで以上に不利な条件で売買を行い松前藩に従わざるを得なくなったのでした。

そして1789年には「クナシリ・メナシの戦い」が起こります。

和人から過酷な扱いを強いられたクナシリやメナシ地方のアイヌ民族約130人が怒って、和人71人を殺害しました。

松前藩は約260人の鎮圧隊を派遣し、なぜ蜂起が起きたのかを取り調べた結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道の実態が明らかになりました。

アイヌの人々は非常に安い賃金で自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど強制的に働かされ、餓死するものが出る状態でした。

次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らの「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しもあり、クナシリ・メナシ地方のアイヌたちはいつ何が起こっても不思議でない状況となっていました。

しかし取り調べの後、クナシリとメナシの指導者ら37人は処刑されたのでした。

松前藩はアイヌ民族同士で仲間割れをおこさせるなどして解決をはかり、これを最後にアイヌの人々による大きな戦いはなくなって行きました。

以上が「アイヌの三大蜂起」と呼ばれるものです。

アイヌ民族による抵抗を受けた松前藩は、その後支配を一段と強め、若者を労働力として酷使していきます。

村は残された老人と子どもばかりとなり、食料を獲得するための狩猟がおこなえずに生活が困窮し、和人への依存を強めるとともに抵抗する力も無くしていったのでした。

やがて、明治時代になり時代が大きく変化する中で、「蝦夷地」という名前も変えようという動きとなりました。

そこで、日本各地を旅し、アイヌ民族とも交流が深い松浦武四郎氏に白羽の矢が立ったのです。

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三重県に生まれた武四郎は、17歳から10年間で日本各地をまわっていました。

武四郎は、26歳の時にロシアが蝦夷地支配を狙っているということを耳にし、当時まだあまり知られていなかった、蝦夷地の様子を人々に知らせようと調査を決意したのです。

アイヌの人々と寝食を共にする調査の中で、アイヌ文化は本土とは異なる文化であるが、自分たちにはない素晴らしい文化を持っていることを痛感し、たくさんの紀行本を執筆しました。

蝦夷地の地形・地名・自然の様子などを詳細に記録した内容は、彼の151冊の日誌にまとめられているそうです。

アイヌの人々と交流を深める中で、武四郎は、当時和人に抑圧されていた「アイヌの人々がこの地で安心して暮らしていけるようにしたい」という思いを強くしていったようです。

武四郎は、アイヌ民族は自分たちの土地のことを「カイ」と呼ぶのを知っていました。

山梨の甲府あたりも「甲斐の国」と言いますね。

アイヌは、富士・甲府・諏訪あたりを北上していますので、その頃からずっと「自分たちの大地」の事を「カイ」と呼んでいたのでしょう。

なので、武四郎氏は「北のカイの道」として「北海道」と命名しました。

その名前には、アイヌ文化を大事にした武四郎の想いが込められているのです。

詳しくはこちらをご覧ください⬇︎

「アイヌ民族とともに歩んだ探検家松浦武四郎」

そうして明治の時代になると、アイヌの人々が住んでいた土地を、本州からの移住者が占有していきました。

これまで生計を立てていた狩猟や漁業、そしてアイヌ独特の文化であった刺青や耳輪・宗教、そしてアイヌ語を話す事も明治政府によって禁止されたのでした。

こうして異文化を持った民族は弾圧を強いられて来たのでした。

そんな中、次々と蝦夷地の実情を公表していった武四郎は、松前藩への批判を容赦なくおこなったことから、調査の妨害を受けたり命を狙われる事もあったそうです。

しかし、武四郎はアイヌ民族の訴えをもっと多くの人々に伝えたいという願いから執筆・出版活動を決して止めることはなかったようです。

出版を通して武四郎が最も人々に知らせたかった事は、アイヌの人々の素晴らしい文化が尊重されることなく過酷な状況におかれている事。

そして、アイヌ文化を正しく理解すべき事、松前藩と商人たちがおこなう「場所請負制度」を廃止する事、幕府の「撫育同化政策」が誤りである事を一貫して訴え続けたのです。

しかし、武四郎の想いは政府には受け入れられず、武四郎自身も排除されていったのでした。

けれども、まっすぐにアイヌ民族の真の姿を見つめ続けた武四郎の足跡は、アイヌの人々にとっての誇りであり、また後世の私たちにとっても見習わなくてはならない姿勢なのだと思います。

アイヌコタンで「シマフクロウ」と「オオカミ」の木彫りのキーホルダーを買いました。
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裏に名前を彫ってくれます⬇︎
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皆さんにもお土産があるので、プレゼントのお知らせを見逃さないでね♡


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