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『ママとパパが生きる理由』元ブログ公開 1

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今夜、テレビドラマ『ママとパパが生きる理由』は最終話を迎えます。

photo:01


夫婦同時期にガンが発覚し、命を諦めることなく生きようとするも、幼いお子さんを残し。。。という実話を元にドラマ化されたものです。

奥さんは生前にアメブロをされていましたが、ご家族の意向で5日に閉鎖されました。

ブログ閉鎖のお知らせ

ところがその後、「ママとパパが生きる理由 ブログコピー」の検索で、私の記事へ訪れる方が後を絶たず、それだけ亡くなられた奥さんの手記を読みたいという方が多いことを知りました。

本も出されていますが、やはりブログで書き綴っていたものの方が、素直な気持ちが出ていると思います。

なので迷った結果、読者の方が彼女のブログの一部をコピーして下さったものを一定期間だけ公開し、その後は限定記事にする事にしました。

ガンを宣告されても、明るく前向きに生きようとされたご夫婦の足跡を、みなさんの心の中にも刻んでいただければと思います。

長いので何回かに分けて公開いたします。

ご協力下さった龍馬さんに感謝いたします。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2012-09-15
出産直後、胸のしこりに気づく

2012年5月。私は2人目の娘を出産した。待望の第2子である。

産後の体調も良く、久しぶりの新生児ちゃんのかわいらしさに幸せいっぱいだった私。

そんな矢先、左胸の上あたりにしこりが触れるのを見つけた。まだ入院中のことだった。

助産師さんに話してみると、「おっぱいが詰まっているのかもね。しこりの部分を軽く押しながら授乳すると改善していくと思いますよ」とのこと。

確かにおっぱい出始めでガチガチになったりトラブルも起きていたので、そのせいかも~なんてあまり深く気にせず、時々しこりを押しながら授乳していた。

だが、なくならない。

退院後、市の助産師さんが自宅を訪問してくれた時に再度相談してみた。

胸のしこりを触って、見てくれて、やはり言った言葉は入院中に言われたことと一緒だった。

なかなかしつこいしこりだなぁ。けど、そんなに痛くもないし、まあいいか。

そうして日々が過ぎていくうちに、左胸が痛み出した。乳腺炎的な痛み。

これはしこりの部分がいつまでも詰まっているからついに炎症を起こし始めたのかなぁ?

そう思って〇式のマッサージを受けに行ってみた。

だがしかし、何度通っても痛くないはずのマッサージは激痛&悶絶ものだし、おっぱいの状態も全く良くならない。

〇式の先生は「おっぱいの循環がとても悪くなっている。少しずつ循環が良くなると改善していくと思うんだけど、あなたの場合はしつこいしこりが本当にゆっくり少しずつ改善に向かうタイプかもね」と言う。

けれど、激痛マッサージに耐えかねて別の所を探してみようと試みた。

次に行ったのは病院の母乳育児相談外来。病院の先生と助産師さんと両方に診てもらうことができる。

ここでも最初はしこりはおっぱいの詰まりという診断で、詰まり解消のためにあれこれしていただいたのだけどやはり改善せず。

そこでこの助産師さんは私に乳腺外科の受診をすすめてくれた。あまりに経過が長いので、一度診てもらった方が安心だから、と。

今、私はこの助産師さんにとても感謝している。受診を勧められなかったら、まだまだ受診せずにいただろうと思うから…

こうして私は、乳腺外科を受診することにした。それは、7月下旬のことだった。

乳腺外科、受診

授乳中なので、マンモはパス。エコーと触診をしてもらう。

先生曰く、しこりの部分は母乳が詰まっているとかではなく、何かみっちりと中身があるものだけど、印象としては良性のものではないだろうかとのこと。

けれど、念のために細胞を少し注射で採取して調べた方が安心だから検査をしますね、ということでしこり部分に注射針を刺して、細胞を調べることになった。

結局、何かしこりがあることによって乳腺が一部詰まって痛みがあったのかな?と変に納得しながら、良性だったとしても手術とか必要なのか?とか、どういう治療を受けることになるんだろうか?母乳育児は続けられるのだろうか?とか色々考えながら帰路についた。

この時には夢にもがんだなんて思ってもいなかったのである。

そしてその甘~い考えは、1週間後の検査結果で脅かされることになるのである。

細胞診の結果、そして再検査

検査結果を聞きに再度受診。

結果は…【鑑別不能】。

は?鑑別不能ってどういうこと??

つまり、こういうことらしい。

細胞診では、採取する細胞がごくわずかなため、悪性か良性か判断が明確につかないということはよくあるのだとか。

念のために、もう少し細胞を多く採取できる針生検をいう検査を受けてほしいと言われた。

局所麻酔をして、少し太い針を刺して中の細胞を採取します、と。

心の準備もそこそこなまま、あっという間に局所麻酔をされ、針が胸のしこりに刺される。痛みはないが、細胞を採取する瞬間に「バチンッ」という大きな音がするのがちょいと怖い。

胸をしばらく圧迫して止血し、終了。

結果は1週間では出ないこともあるので、結果が出次第こちらから電話でご連絡します、と言われ帰宅。

さすがに悪性の2文字が頭をかすめてビビってくる。

夫は「大丈夫大丈夫!絶対良性だって!」と言って私を励ましている。

私も一瞬ビビったものの、あれこれ考えたって結果が変わるわけじゃないだから、なるようになるさと開き直り、のんきにいつも通りの私で結果を待つ日々を送ることにした。

そして検査から1週間。

結果が出たので受診してくださいと電話が来た。電話の印象はかなりライトな感じ。

ご家族も一緒に…とか言われなかったし、きっと大丈夫だったんだ。そう思い、病院へ向かった。

乳がん宣告

家族呼ばれなかったしきっと大丈夫。

そんな希望はあっさりと覆され、私は1人で普通に「検査の結果、がんでした。」と実に軽い口調で重い事実を告知されたのである。

最近、がんの告知ってこんな感じなのかしら。

しかも、別に初期で手術すればすぐに治る、みたいな状態でもなく、しこりはすでに6cmを超える大きさになっており、今のままでは手術できる状態ではないとまで言われ、ここの病院では難しいので大きな病院へ行った方がいいと言うのである。

〇大やがんセンターなど選択肢は色々あるから、家族と相談してどの病院へ行くか決めたら紹介状を書くので連絡ください、と。

こんな状態でも、1人であっさり告知を受けちゃうんだ~とびっくり。

だいぶ頭がパニックである。

とりあえず、先生に言われたことを再度確認し、メモをとり、病院を出た。

病院へ送ってきてくれた夫が待つ駐車場へと向かう。

「ごめん。大変なことになっちゃった。悪性だった。乳がんだって」

そう夫に告げると、「マジで!?」とにわかには信じられないといった様子。

「とりあえず家に帰ろう。話はそれからだよ。」

そして2人で自宅へと向かった。

2012年8月8日のことだった。

泣かれるのがつらい

意外と冷静な私。

ショックは受けたけど、再検査になった時点できっとどこかで覚悟をしていたのだと思う。

ただ、これから家族には精神的にも肉体的にも経済的にも多大な負担を強いることになってしまう。

ただただそれが申し訳なくて、ずっと謝っていた。

夫は、私が謝ることは何もないといって、涙を流した。

胸が無くなろうと、腕が無くなろうと、どんな姿になったとしても生きていてさえくれればそれでいいんだと言って、泣いた。

そんな風に言ってもらえる私は、幸せだと思った。そして、こんなに夫を悲しませてしまうことが辛かった。

だが、悲しんでばかりもいられない。

事は一刻を争うのだから、さっさと病院を決めて治療を始められるようにしないと。

近所の病院で最初に私を診てくれた先生が◯大から出張医として来ていた先生だったという縁もあり、自宅からも通いやすく設備も充実していそうということでひとまず、病院は◯大にしようと決定。

すぐに病院へ電話をして紹介状を書いてもらうことにした。

さて、この後私の親と夫の親にこの事実を伝えなくてはならない。

母親には泣かれるんだろうなぁ…悲しい思いをさせることになってしまって、本当に申し訳ない。

泣かれるのは、つらい。

2012-09-17
意外と私の心は頑丈だった

夫の親には夫から伝えてもらうことにした。

私の親には、どうやって伝えようか…と考えていた時、タイミング良く親から連絡があり、用事があってこちらの家によりたいとの事だったので、家に来てもらい、母には娘2人の遊び相手をしてもらうことにして、その間に父に話をすることにした。

父は意外なほど冷静だった。

そして保険は入っていたのか、貯金はあるのかと現実的なことをひとしきり確認したのち、「お金のことは心配しなくても俺たちがいくらでもフォローできるから大丈夫、まかせておけ。頑張るんだぞ」と励ましてくれた。

母には帰宅してから伝えて、とお願いした。

後日父から連絡があり、母はショックを受けていて、私に連絡したいけど話せる状態ではないので、察してあげてほしいと言われた。

夫の母も、結果を聞いて泣いていたと夫が言っていた。

こんなに心労をかけてしまって本当に申し訳ない。

けれど、こんなに泣いたりしてもらえるような人間だったんだなぁ、私。大事に思ってもらえてたんだなぁ。

そう思うとありがたくて心があったかくなる。

夫は相変わらず私の心配ばかりしている。数日後に控えている楽しみにしていたロックフェスも、行かないと言い出した。

夫がロックフェスに行く予定の日は、私は高校の同期会の日。

夫は同期会もロックフェスも行くような気分でもないし、行っている場合でもないと思っていたらしいが、私は普通に同期会に行くつもりだったし、夫にもせっかくチケットもとって楽しみにしていたのだからフェスに行ってきてよと言った。

だって、ロックフェスに行かずに、同期会に行かずに家で暗い顔してたってがんが治るわけじゃない。むしろ免疫力が下がって悪化するかも!?

今すぐ死ぬほど深刻な病状ではないんだし、これから治療が始まったら楽しいことも計画しにくくなるんだから、今のうちに楽しめることは楽しみたい。

そう言って夫を説得して、ようやく夫は出かけていき、私も同期会を楽しんだ。

昔、私はとても情緒不安定で弱々しいメンタルの持ち主だった。それが嫌で、強くなりたいとずっと思っていた。

出産してからその気持ちはより強くなり、自分なりにできる努力をしてきたと思う。

その結果が今、こんな形で発揮されようとは…

私の心は折れていない。絶望もしていない。きっと治してみせると強い決意をして、笑って日々を過ごせている。

落ち込む夫や母を私が励ましているくらいだ。

母は強し、なのかな。

2人の幼い娘のために、まだまだ生きたいのだ。

さて、次は〇大受診。どんな結果が待ち受けているのか…

大学病院受診、そして結果

フェスと同期会、それぞれに楽しんで週末を過ごし、明けて月曜日はいよいよ〇大病院受診。

あっちこっちの検査に回され、朝一から行っていたのに診察が終わって病院を出るころには午後2時を過ぎていた。疲れた~。

これだけ時間がかかったけど、検査は全部は終わらなくて後日2日に分けて残りの検査を受けることになった。

造影剤を使ったCT&MRI・骨シンチ・レントゲンに心電図・肺機能などなど。

全身に転移がないかどうかの入念な検査内容。

結果を聞きに行く車中では、さすがに怖くてちょっと泣いた。

夫はそんな私に「怖いよね。当たり前だよね。泣いていいよ」と言ってくれた。

結果は…肝臓に腫瘍らしきものがある。

形状などからいって、転移とみて間違いないだろう、と。鎖骨上のリンパにも転移と思われるものがあり。

手術不能のステージⅣ。

おまけに乳がんの性質としては、ホルモン剤もハーセプチンも効かないトリプルネガティブという結果。

抗がん剤をやる以外に治療の道は閉ざされたのである。

ぶっちゃけた話、この状況で平均余命ってどんな感じですか?と先生に聞いてみるも、人によって様々なので何とも言えませんね~という返答。

はぁ…どこかで覚悟はしていたから冷静に話を聴くことはできたがステージⅣか。

その後、今後の治療の受け方について詳しい説明を看護師さんがしてくれるということで別室に連れていかれた。

看護師さんのフォローは手厚かった

看護師さんに別室に連れていかれて、夫と2人席に着く。

がんのステージの告知、そして治療についての話、突然色々聞いて大丈夫ですか?

そんな切り口で始まった看護師さんの話。

「大丈夫です、今日ここに来るまでにある程度の覚悟はしていたし、自分でもこの病気について本を読んだりネットで調べたりしてどんな形で治療がすすめられるのかなど全て頭に入れて今日を迎えたので」と返答した私。

その後も色々話をして、手術不能で完治が見込めないなら、生活の質を大切にしたいという私の想いなども聴いてもらった。

この話をしてるあたりから涙が止まらなくなった。夫も横で泣いていた。

看護師さんは静かに話を聴いてくれた。

「抗がん剤の副作用については、できる限り生活の質を落とさずに治療をすすめられるように相談に乗っていきたいと思っています。

この短期間の間にそれだけのことを決意するまでにはどれだけの葛藤があったかと思うと、本当に大変な状況の中強い心を持っていらっしゃるのだと思います。」

そう言われて、さらに涙が止まらなくなった。優しい言葉をかけられると弱いなぁ。

そして、子供に自分の病気をなんて説明するかについても的確なアドバイスをしていただいた。

子供に親のがんを伝えるときにどんなことを大切にしてどんなポイントを押さえて伝えたらいいのか、年齢別に詳しく記載されている冊子もいただいた。

とてもきめ細かい配慮に感動。

その後化学療法室を見学して、待合室に置いてあった医療用のウィッグをかぶってはしゃぎ(笑)帰宅。

1週間後には初回の抗がん剤投与だ。

髪が抜けるのも嫌だけど、吐くのはゼッタイ嫌だなぁ…

嘔吐恐怖で、生まれてこのかた吐いたことなんて片手におさまるほどしかない私。

化学療法室の看護師さんが、今はすごくいい吐き気止めが出ているから嘔吐する人はかなり減っていますよ~と言っていたのでその言葉を信じよう。

そんなことを思いながら、抗がん剤治療までの日々を過ごすことに。

そしてここからさらに怒涛の試練が私たち家族に襲いかかることになる。

夫の入院である。

夫の異変は、首の腫れから始まった

私の検査結果がすべて出そろい、治療開始を待つばかりになったそのわずか3日後に夫は入院することになった。

実は夫は私が乳腺外科を最初に受診したころ、首が腫れているのが気になると言って、甲状腺関係の異常かな?なんていいながら近所の耳鼻咽喉科を受診していた。

ずっと前から出たり治まったりしていた咳も気になっていたので同時に診てもらっていた。

しかし、血液検査やエコーをとっても異常はなかった。咳はぜんそくかもしれないとのことで、薬を出してもらったがあまりよくならない。

首の腫れも結局原因がわからないけど検査結果に異常はないからそのうち治るんじゃない?なんていいかげんなことを言われた。

原因がわからず、症状も治まらないでは困るので、この病院はやめて別の総合病院へかかることにした。

首から胸までレントゲン、CTなどありとあらゆる検査をしたにもかかわらず悪い個所はどこにも見つからなかった。

けれど首の腫れは日に日にひどくなり、息苦しさを感じる時間も増えていく。咳も止まらない。

どうしても原因がわからないので、PETを受けてみましょうと勧められた。

あの、全身どこに腫瘍があっても、それもかなり小さいものまで見つけることができる、PETである。

そしてそのPETでやっと異常な個所が発見されたのである。

その異常な個所とは、縦隔部分。(縦隔とは、左右の肺と胸椎、胸骨に囲まれた部分)

そこに腫瘍かリンパの腫れがあると推測されると。

レントゲンなど色々検査したのに異常が認められなかったのは、位置的にちょうど心臓やらその他臓器の陰に隠れる部分だったから。

専門的知識がある医師がいる病院へ紹介状を書くので、その結果を持ってその病院を受診してくださいと言われ受診。

再度エコー、造影剤使用でのCT、MRIなどの検査と腫瘍マーカーの検査を経ても、悪性の病気かどうかはまだわからなかった。

ただ、首の腫れは縦隔の腫瘍から来ているものだという診断で、この縦隔の腫瘍がどんな性質のものなのかを調べなくては治療方針が決められないとの事。

しかも、早く治療方針を定めて治療を始めないと、縦隔の腫瘍が腕の方に走っている血管や神経も圧迫するようになり、それが始まってしまうと後遺症として腕のしびれなどが残ってしまう可能性があるから、すぐに入院して検査をした方がいいと…

夫は、私がこんな時にそばにいてあげられなくてごめん。と言った。

気丈にしていた私も、夫の事となると動揺が隠せなかった。

どうかどうか、悪いものではありませんように。

縦隔の腫瘍を切って、すべてが解決するような結果でありますように。

そして自分の抗がん剤治療が始まるまでの待機期間は、夫不在となり、さらに心細いものとなった。

夫の病理検査の結果について、主治医に呼ばれる

私の抗がん剤治療の次の日。入院している夫から電話。

病理検査の結果が出た。これからの治療方針など話を聴きたい家族がいたら呼ぶようにと主治医に言われた。明日、病院に来られるか?と。

抗がん剤の副作用がつわり程度の吐き気で治まってくれてるおかげで、病院へは行ける体調だった。

夫曰く、どうも主治医の物言いからしてほぼ悪性のものだと思う、と。

そして、主治医には悪性だろうと余命がどうだろうと全部ぶっちゃけて隠さずストレートに話してくれと頼んであるので覚悟して来いと。

こんなことってあるんだろうか。

夫婦がほぼ同時にがん宣告を受けるなんて…

しかもまだ2人とも30代なのに…

けれど、なんとなく嫌な予感はしていた。

夫の症状や検査の内容などから様々な病気の可能性を考えて、調べながら日々を過ごしてきたから。明日はどんなことを言われても絶対に冷静に話を聴こう。

そして、絶対に泣かないんだ。

泣かれて辛いのは、私が一番よくわかっているから…

そして告知の日、9月5日を迎えた。

夫の肺がん告知

病理検査の結果を聞きに病院へと向かった。

結果を聞きに来たのは私と夫の母、夫の弟の3人。

病室で先生に呼ばれるのを待っていると、看護師さんが迎えに来て面談室へと案内された。

そこで聞かされたのは、肺腺がんであるということ。

首の腫れは遠隔転移と思われ、ステージⅢbという厳しい状況で手術はできないとのこと。

今後は放射線治療と抗がん剤治療を並行して行っていくこと。

この状態での平均余命は1年半から2年だということ。

私は抗がん剤治療についてや使う薬剤、薬剤が効かなくなったあとのことなど一連の流れについて色々と質問をした。

胸が苦しい。

なんとか冷静さを保ってはいるけれど、自分の告知を受けた時よりよほど辛い。

ああ、私はこんな辛い思いを夫にさせていたんだな。

ひとしきり話を聞いて面談室を後にした。

病室に戻って、夫の母と弟が売店へ行くと言って席をはずして夫と2人きりになった時、泣かないと決めていたのに泣いてしまった。

でも、あきらめないんだ。

絶対に、夫婦で治ってやるんだ。

一緒にがんばろう。絶対に、大丈夫。

2人でそう話した。

2012-09-18
悲しんでばかりもいられない

夫の肺がん告知を受け、2人で必ず病気に勝ってみせると決意を新たにした私たち。

帰宅後私が一番最初にしたことといえば各種保険の手続きだった。

私はろくな保険に入っていなかったうえ、入院もしないのでなんの手続きもなかったのだが、さすがに夫にはそこそこ手厚い保険をかけていたので、まずは少しでも金銭的に不安にならずに治療に集中できる環境づくりをするために、迅速な手続きが必要!と思い
またしても自分を奮い立たせて各会社に電話をかけまくる。

がん保険。病気入院の保険。そして1番大事なのが住宅ローンの団信保険。

がんと診断されたら住宅ローンが0になるというあれ。

悲しんでなにもせずに泣いている暇はない。

次に高額医療費限度額認定証発行の手続き。さらに世帯合算など煩雑な仕組みについて調べて問い合わせ。

一通り手続きが終わったら、今度は肺線がんについて調べる。本を取り寄せ、ネット検索し、これからの治療法について考える。

最善を尽くせるように。頭が忙しい。

さすがにこの夜は寝付けなかった。


☆☆☆<続く>☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

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