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『平泉寺白山神社』こちらが白山信仰の始まりの地だった!

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🟠金沢への旅報告 続き

私が何故、白山神社を訪れたかったかについては、昨日のブログに綴りました↓
『近畿五芒星』から導かれたのは、まさにここ『平泉寺白山神社』でありました!

「平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社」は、全国にある白山神社の総元社とされる神社で、717年(養老元年)に泰澄大師によって開かれました。

奈良時代のはじめに建立された「平泉寺」を前身とする神社ですが、明治時代の神仏分離令により寺院としての「平泉寺」は廃寺になったのです。

なので、寺と神社が両方つく名前に😂


参道に敷き詰められた大きな石畳は、修行僧たちの手で九頭竜川の河原から運び上げられたものだそうです。




境内へ続く旧参道は、菩提林とよばれる杉並木に囲まれた道になっており、「日本の道百選」に認定されているそうです。

初めて見る形の鳥居が現れました↓


神仏習合時代の面影が残る江戸時代中期作の権現造なのだそうです。


中央に屋根がついている鳥居は、ここにしか見られないそうです!

それで納得しました。

明治政府が作った神社本庁に従わなかったからこそ残せた鳥居だと。

だから、白山を神体山とする白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の方が、全国に約3千社ある白山神社の総本宮になっていて全国的に有名なのだと。

私も読者の方に教えていただかなければ、当日までこちらの神社の存在を知りませんでしたから。

調べれば調べるほど、こちらの神社の重要性が分かってきました。


またこちらは、京都の世界遺産『西芳寺』と並び称されるほど、美しい苔が有名なのだそうです。

私も井上先生のマネをして自分のプリンを撮影してみました!




苔がいい感じを醸し出しております。


つか、そんなことより、私は早くプリンが食べたい!🤣

源平時代には木曽義仲が戦勝祈願をしたり、兄・源頼朝に追われ、京から逃れた源義経と弁慶が奥州平泉に落ちのびる途中、こちらに詣でたことも記されています。

最盛期には48の社・36のお堂・6000もの坊があり、8,000人を数える僧が居住していたといわれ、当時、日本では最大規模の宗教都市だったそうです😱

(あの東尋坊も、こちらの僧だった)

しかし1574年に一向一揆との戦いで敗れ境内をすべて焼失してしまったそうです。

しかし近年、数々の石畳や石垣、坊院(僧侶の住居)の跡が発見され、その壮大な境内の姿が明らかになってきているとのこと。

昔の平泉寺白山神社の境内↓
現在の境内↓

正面に見えているのが拝殿です。

江戸時代につくられた寄棟檜皮葺(よせむねひわだぶき)の拝殿は 一向一揆で全焼する前は、上の絵でも分かるように、京都の三十三間堂より大きな建物だったそうです!


広い敷地に、お社が点在していました。

見えて来たのが、本社です。

どこも、白い覆いがされていましたが、雪に備えてなのでしょうか。

本来の本社はこのようになっているようです。(ネットより↓)

昇り龍・降り龍の彫り物が秀逸だそうです。

こちらは白山神社なのに、主神を菊理媛神とはしていません。

本社に伊奘冊尊、本社右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社に大己貴尊(大国主命)を祀っています。

しかし、しらやま神である「おしらさま」とは、瀬織津姫なのではないかと言われています。

別山社

越南知社(おおなむちしゃ)↓

これは、白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているのだそうです。

江戸時代には、両端にさらに金劔社・加宝社があり五社が整然と立ち並んでいたそうです。

本社のご開帳は33年に一度で、次に扉が開けられるのは2025年だそうです。あと4年!!


そして帰り道、私たちはこの道の右手に、とっても重要な場所を見つけてしまいました!


キッカケは、たまたま井上先生が再度、ぷりん撮影を、道端で始めたことにありました。

そしたら、下に降りる階段があったので、何だろうと思い、撮影中の井上先生をそこに残して田中師匠と行ってみたのでした。

そしたら、そこには、何かいわくありげな御手洗池(みたらしいけ)がっ!!↓


看板を見ると、なんと、ここは泰澄大師が白山神社を建てるキッカケとなった発祥の地だったのです!

神泉は、今も絶えることなく湧き出ており、「平泉寺」や「平清水」の名前の由来となっているのだそうです。



そして、後ろには泰澄大師自身が約1200年前にお手植えになられたご神木もありました!


幹は途中から3本に分かれ、白山三社をかたどる形になっているのだそうです。


ー泰澄の伝説ー

泰澄大師↓

泰澄は、695年に越知山で修行をしていた時、美しく氣品ある天女が現れて「東の林泉へ行け」と告げて消えたそうです。

そして、泰澄はこの地で林泉を発見しました。

大師の祈念に応じて泉の中の影向石に白山の大神が出現され「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、当地に社を建てて白山の神を奉斎されたと伝えられています。

現在の『御手洗池』こそが、平泉寺白山神社の大元の場所だったのです。



そして、さらに続きがあります。

泰澄は、林泉のほとりに立っていると、またもや天女が現れ「白山へ登ってこい」と告げて消えたのでした。

お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。

そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達したのでした。717年、泰澄36歳の時でした。

泰澄が白山天嶺の禅定(霊山の頂上)に登り、緑碧池(翠ヶ池)の側で祈りをこらすと、目の前に九頭龍王が現れました。

真身ではないことを泰澄が責め立てると、ついに白山神の本地仏である十一面観音菩薩の玉体が現れます。

また、白山の主峰に連なる左孤峰(大汝峰)では大己貴尊が現れ、さらに、右孤峰(別山)では、小白山別山大行事という神が現れるのでした。

(本社の並びはここから来ているのですね)

それから泰澄はこの峰に居したそうです。

その後、736年泰澄55歳の時、全国で天然痘が大流行し、平城京でも多数の死者が続出していました。

その時、聖武天皇より泰澄に勅命が下され、十一面法を修したところ、なんと疫病は数日間で治まったそうです。

(「向源寺」の十一面観音像は、その頃、泰澄によって彫られたものです。)



その功績により大和尚の位を授けられ、「越の大徳」は『泰澄』の名を賜ったのでした。

<まとめ終わり>

はぁ〜、全然予備知識なく訪れたのに、はからずして凄い場所に踏み入れてしまったではありませんか!

これも、「向源寺」の妖艶な『十一面観音さま』のお導きでしょうか。

その頃、井上先生の撮影はちょうど終わったようで。。🤣


ようやく満足できる作品が撮れたようでした。

良かった〜。やっとプリン食べられる💕

そして、参道を出た左手の場所をお借りして、三人でそれぞれのプリンを頂くのでありました。


私が選んだ柿のプリン、美味しかったです😍
プリンの蓋にあったQRコードを読み取ったら。。

もしかしなくても大吉さ!

『永平寺だるまぷりん』は、結構遊べる!😂

「平泉寺白山神社」は、「詩でたどる日本神社百選」「美しい日本の歴史的風土100選」「かおり風景100選」に選定され、参道が「日本の道百選」に。

また、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」に選定されているそうです。

平泉寺白山神社は、他の神社とは異なる独特の雰囲氣があり、歴史的にも非常に重要な場所だと感じました。

ほぼ貸切りで静かに参拝出来たのも良かったです。

小浜市で知った「近畿五芒星」からの、伊吹山麓の十一面観音像からの、『平泉寺白山神社』。

お導き下さいまして、誠にありがとうございました!!!



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