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アンビリバボーで感動の涙 貴島テル子さん

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23日から、貴島テル子さんの記事へのアクセスが異様に多くて、何があったのかと調べたら、「アンビリバボー」で彼女の事を放送したみたいですね。

photo:01


アクセスのあった記事はこちら。
96歳の小児科医貴島テル子さんを支えたもの

Twitterでも彼女のラブレターの話が感動すると話題になっていました。

http://matome.naver.jp/m/odai/2136931387216087501

「アンビリバボー」ではどんな内容を放送したのか気になり調べてみました。

すると、ラブレターについての詳細が分かりました。

こちらの記事を参考にしてまとめます。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/130523_2.html

奇跡体験!アンビリバボー:日本最高齢97歳の女医★150通のラブレター

宮崎県宮崎市内で小児科医を営む、貴島テル子さん、97歳。

パワフルに活動し続ける貴島さんのパワーの源は、大切に保管された150通ものラブレターにありました。

実はそこには、激しく悲しい愛の物語があったのです。

昭和14年、女学校を卒業したばかりのテル子さんは、ある日、生け花教室で親しくなった友人・文子さんの家を訪ねました。

文子さんの実家は内科の開業医で、テル子さんはそこで文子さんの兄、貴島政明さんと出会ったのです。

政明さんは東京の海軍航空予備学生として、パイロットになるための訓練を受けていましたが、若い2人が恋に落ちるのに、時間はかかりませんでした。

その後テル子さんは、外交官の父が住む中国・天津へ渡った為、離れ離れになった2人は手紙という形で静かに愛を深めていきました。

ある時テル子さんは、振り袖の余り布で自分を模した人形を作り、政明さんに送ったのでした。

政明さんはその人形を大切にしていたようです。

海を隔てた文通でお互いの気持ちを率直に書き綴っていくうち、恋する気持ちはどんどん大きくなっていきました。

そして、テル子さんが天津から帰国すると、政明さんも東京から宮崎に戻り、2人はほんのつかの間、共に過ごしたのです。

そのとき、テル子さんは医者になるのが夢だということを政明さんに話すと、政明さんはその夢を応援してくれました。

女性の自立を認める、それは当時としては新しい考え方であり、テル子さんは新鮮な気持ちで彼に胸を打たれたのでした。

そんなやり取りが続き、ついに2人は、結婚の約束を交わしました。

しかし、出会いから1年後、テル子さんの両親が天津から一時帰国した際に、政明さんが彼女の家を訪れ、結婚の許しを請うたのですが、父は首を縦にはふりませんでした。

反対の理由はただ一つ、政明さんが軍人だったからです。

実はテル子さんの父・新坂狂也さんは、当時の満州国皇帝、あのラストエンペラーとして知られる愛新覚羅溥儀の身辺警護を務めるエリート外交官でした。

だからこそ、日中戦争が激化するなか、もはや対戦が避けられないことが分かっていたのです。

出撃命令があれば、命を捨てることが当たり前である海軍の飛行士との結婚など、許せるはずがなかったのです。

しかし、2人の心の結びつきは、誰にも解くことはできませんでした。

ついに両親も結婚を認め、昭和16年1月3日、共に24歳のとき宮崎神宮で挙式し、永遠の愛を誓ったのです。

しかし、夫婦2人だけの新居を構える暇もなく、ほんの数日、実家で過ごすと、政明さんは軍務に戻っていったのでした。

やがて戦争は激化、政明さんは台湾の軍航空隊に配属となりました。

政明さんが日本に戻ってきても、逢瀬は三日か四日しかありませんでした。

新婚夫婦に許された時間はあまりにも短く、別れはいつも切ないものでした。

昭和16年12月8日、日本軍はアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃。 第二次世界大戦が始まったのです。

日米開戦後、政明さんから届く手紙の内容が一変しました。

夫から届く手紙には死の覚悟ばかり、軍の検閲があるとはいえ、今までなら必ずあった溢れるほどの愛の言葉はどこにもありませんでした。

戦地はそれほどまでに過酷なのか、優しかった夫の心を変えてしまうほどに・・・  

やがて、いくら手紙を書いても、政明さんからの返事は全くこなくなってしまいました。

そして、開戦から1年後の大晦日のこと。

投函されることのなかった政明さんからの手紙の束が届きました。

その手紙に添えられていた軍からの通知には、夫が戦死したことが書かれていました。

政明さんが乗った輸送機は、ソロモン沖で米軍機によって、撃墜されたのでした。

こうして、あまりにも短い結婚生活は終わりを告げました。

共に過ごした新婚の日々は、わずか75日だったのです。

夫の死はテル子さんを打ちのめしました。彼女はただただ泣くことしかできませんでした。

そんなある日、彼女は夫の死後届いた手紙を読んでみることにしたのです。

夫の死があまりに辛く、開くことすらできなかった手紙でした。

ほとんどが、軍人として毅然と覚悟を語るものばかりだったのですが、その中に、政明さんがテル子さんにあてた遺書がありました。

そこには、自分の亡き後、然るべき身を処してほしいと書かれていました。

photo:02


それを読んで、生前、テル子さんの夢を応援してくれていた夫の姿を思い出したのです。

夫の思いに報いなければ。。。

亡き夫の手紙がテル子さんに忘れかけていた夢を思い出させ、働く女性になることを決意させたのです。

猛勉強の末、テル子さんは大阪の女子医専(現 関西医科大学)に見事合格しました。 28歳の春でした。

さらにテル子さんは勉強を続け、33歳で医師になり、迷うことなく、専門は小児科を選びました。

そして、約束通り医師として貴島家に戻り、宮崎市内で貴島医院を開業し、宮崎の子供たちを我が子のように愛し、支え続けているのです。

戦後、テル子さんは政明さんの仲間が主催する戦死者慰霊祭に積極的に出席していました。

ある時のこと、政明さんと同じ部隊に所属していた戦友だという男性から声をかけられました。

そして、テル子さんは彼の口から夫の本心を知る事になるのです。

戦地からの手紙に愛の言葉がなくなったのは、戦争が夫を変えてしまったわけではありませんでした。

なぜなら、政明さんは、テル子さんが送った人形をいつも肌身離さず持っていたからです。

最後の瞬間までテル子さんを愛し続け、心の中で抱きしめながら死んでいったのだと分かりました。。。


夫の死から47年後、テル子さんはソロモン諸島にいました。

様々な軍事記録から、政明さんが戦死した場所を特定し、愛する夫に花を捧げたのでした。

日本最高齢の女医、97歳の医師、貴島テル子さん。

今も残る150通ものラブレターこそ、そのパワーの秘密でした。

photo:03


天国の夫への恋心は今までも、そしてこれからも変わることはないでしょう。

<まとめ終わり>

私も最愛の人を亡くし、半年泣き続けた事がありますので、テル子さんが夫の戦死の知らせを受けた時のショックが痛いほど分かります。

政明さんも、テル子さんの人形を握りしめながら、死への恐怖と戦っていたのでしょう。

政明さんのその気持ちを思うと切なくなります。愛するテル子さんを残して逝くのはさぞかし無念だったでしょうね。

でも、テル子さんには政明さんからの愛の証が150通ものラブレターという形で残っていました。

それを読めば、時を越えて彼に逢えるのでしょうね。

テル子さんの心は、若き日のままなのです。

だから、97歳の今でも現役でやっていられるのでしょうね。

愛の力って本当にすごいです!!

それを証明してくれるテル子さんは素晴らしい方だと感動しました。


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