16日に北海道でアイヌの方々の儀式「絶滅種鎮魂祭」に参加した記事の続きです。
★人間が絶滅させた動物たち その1
「種が絶える」という事の重大さに私たちは氣がついているでしょうか。
絶滅。。もう元には戻せないのです。
地球上で、人間さえいなければ、彼らは調和・循環の元、共存出来ていたのです。
人間がその輪を壊したのです。
オオカミを絶滅させた為に、鹿の数が増えすぎ、作物を荒らすと今度は鹿が害獣扱いになります。
「害」とは人間にとっての不利益です。
動物にとっては、人間こそが「害人」でしょう。
彼らに、人間は地球上にいなくては困るよね、と思わせるような生き方は出来ないものでしょうか。
今日も、鎮魂祭の来賓席にいらした絶滅種の動物たちについて調べていきます。
ニホンアシカ様⬇︎
ニホンアシカは、縄文時代以降の日本各地の遺跡で骨が発見されていることから、近年までは宮崎や伊豆諸島など、日本近海広域に分布していたと思われる。
アザラシやトド、オットセイのように冬に回遊してくるのではなく、周年生息していた。
絶滅に追い込まれた要因は、漁師たちの駆除もしくは乱獲。
乱獲された目的は主に毛皮目的であるが、昭和初期にはサーカスの見世物目的としても捕獲されていた。
肉はあまり美味しくはなかった為、油や漢方薬などとして使用された。
1720年以降の浦賀では幕府の役人によるアシカ狩りが例年100年以上にわたり行われたとされている。
また、アシカが網を破るなどの被害を発生させる為、明治中頃から漁師によるアシカ駆除は競って行われた。
江戸時代から明治時代にかけて、特に日本海の竹島周辺では大漁に乱獲された。
1950年代以降、目撃の記録がないため絶滅したとされている。
ステラカイギュウ様⬇︎
ジュゴン目(海牛目)ジュゴン科に属し、かつて北太平洋のベーリング海に生息していた大型のカイギュウである。
ステラカイギュウは、寒冷適応型のカイギュウ類の、最後の生き残りだった。
寒冷な海に育つコンブなどの海藻類を食べ、体を大きくして大量の脂肪を蓄えることで、寒冷な気候に適応していた。
ロシア帝国の第2次カムチャツカ探検隊が、1741年11月のはじめに遭難した時に、遭難中のシュテラーたちにとって、このカイギュウたちは有用な食料源となった。
美味であるばかりではなく、比較的長い時間保存することができたため、その肉は彼らが島を脱出する際、たいへん助けとなった。
皮は靴やベルト、ボートを波から守るカバーに利用され、ミルクは直接飲まれたほか、バターにも加工された。
脂肪は甘いアーモンド・オイルのような味がし、ランプの明かりにも使われた。
彼らが生還できたのは、このカイギュウの生息域でそれを有用に利用できたからであった。
生還したシュテラーの報告により、ステラカイギュウと名づけられたこの海獣の話はすぐに広まり、その肉や脂肪、毛皮を求めて、カムチャツカの毛皮商人やハンターたちが、数多くコマンドル諸島へと向かい、乱獲が始まった。
ハンターたちにとって好都合なことに、カイギュウたちは動作が鈍く、人間に対する警戒心ももち合わせていなかった。
有効な防御の方法ももたず、ひたすら海底にうずくまるだけだった。
このような動物を銛やライフルで殺すことは容易だったが、何トンにもなる巨体を陸まで運ぶことは難しいため、ハンターたちはカイギュウをモリなどで傷つけておいて、海上に放置した。
出血多量により死亡したカイギュウの死体が岸に打ち上げられるのを待ったのだが、波によって岸まで運ばれる死体はそれほど多くはなく、殺されたカイギュウたちのうち、5頭に4頭はそのまま海の藻屑となった。
ステラカイギュウには、仲間が殺されると、それを助けようとするように集まってくる習性があった。
特に、メスが傷つけられたり殺されたりすると、オスが何頭も寄ってきて取り囲み、突き刺さった銛やからみついたロープをはずそうとした。
そのような習性も、ハンターたちに利用されることになった。
1768年、シュテラーの昔の仲間であった者が島へ渡り、「まだダイカイギュウが2、3頭残っていたので、殺した」と報告しているが、これがステラカイギュウの最後の記録となった。
ステラカイギュウは、発見後わずか27年で姿を消したことになる。
クアッガ様⬇︎
南部アフリカの草原地帯に生息し、数十頭で群れを作って生活していた。
「クーアッハクーアッハ」というその鳴き声からその名がついた。
前半分がシマウマ、後ろ半分がウマ。
クアッガを根絶やしにしたのはヨーロッパ人で、彼らは必要のために、あるいは娯楽のために狩猟を行った。
肉は食糧に、皮革は衣服や背負い袋をつくるために使用された。
同時にアフリカ人たちも、容赦ない狩りを行った。というのも、この野生の動物はしばしば、彼らの家畜と同じ草を食べていたからだ。
野生の最後のクアッガは1861年に射殺された。
ヨーロッパ各地の動物園にいた個体はその後も生きていたが、飼育下で絶滅回避を図るには数が少なすぎた。
この時、雄雌両方のクアッガがいたが、雄のクアッガが暴れたことで薬殺処分されたため、絶滅が決定的となってしまった。
アムステルダムのアルティス動物園で16年間飼育されていた最後の1頭である雌のクアッガが死んだのは、1883年8月12日のことである。
その最後の日も特に目立った騒ぎになることはなかった。
誰も、この個体がその種の最後の1頭だったことを知らなかったのだ。
こうして、わずか30年ほどの間に、白い足のクアッガは姿を消した。
カスピトラ様⬇︎
別名ペルシャトラ。耳が小さく顔の下半分の毛が長く、顔が大きく見えるのが特徴。
カスピトラはかつて中国およびロシア、トルキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコでよく見かけられた。
カスピトラは、毛皮や骨(漢方薬)を得るために乱獲の対象となった。
イラクでは1887年にモスル近くで殺されたものが唯一のカスピトラの記録である。
コーカサス地方ではトビリシ近くで1922年に殺害された個体が最後の一頭だった。
オオウミガラス様⬇︎
かつて北大西洋と北極海に分布していた。
オオウミガラスは、肉や卵を食用にするため、または、羽毛や脂肪を採取するために、少なくとも8世紀頃から捕獲利用されていた。
大規模な乱獲により、数百万羽いたとされるオオウミガラスはたちまちのうちに数を減らしていく。
オオウミガラスは人間に対する恐怖心がなく、逆に好奇心を持って自ら人間に近寄ってきたといわれる。
また、1年に1個しか産卵せず繁殖力が低かったことも、絶滅に繋がった。
1534年、フランスの探検家ジャック・カルティエの隊は、ニューファンドランド島に上陸し、1日で1000羽以上のオオウミガラスを殺した。
この話がヨーロッパ中に広がって、各地の海岸で無秩序にオオウミガラスが狩られ、卵が持ち去られることとなった。
1820年頃、遂にオオウミガラスの繁殖地はアイスランド沖のウミガラス岩礁だけになった。
この島は周囲を崖で囲まれていて人が近づくことができなかった為だが、1830年に海底火山の噴火にともなう地震により、岩礁は海に沈んだ。
この災害から生き残った50羽ほどが、近くのエルデイという岩礁に移り住んだ。
絶滅寸前であったため却って希少価値がつき、標本は収集家や博物館に高値で買われるようになり、一攫千金を狙った者たちによって残ったオオウミガラスも次々と狩られていった。
1844年7月3日、エルデイで最後に確認されたオオウミガラスの生体は抱卵中のつがいだったが、発見と同時に発見者に1羽は棍棒で殴り殺され、もう1羽は絞め殺され、残された卵も殻が割れてしまっていたという。
こうしてオオウミガラスは、永遠に地上から姿を消した。
タカノホシクサ様⬇︎
本種は日本国内に自生するホシクサ科では唯一沈水性の一年草であり、草姿から生態まで非常に珍しい種であった。
1909年に「高野貞助」により「多々良沼」で発見された新種で、未だに他に産地を見ない貴重な植物である。高野氏の姓が本種の由来となった。
その後、学会で紹介されたため各地から研究者や採集者が訪れ、その珍しさ故に採集されていき、結果発見から50年を経たずに「多々良沼」及びその近辺では見られなくなってしまった。
採集圧により絶滅に陥った顕著な例である。
<まとめ終わり>
世界には、他にもたくさんの絶滅種がありますが、本日は来賓席に名前の上がっていた皆様方をご紹介させていただきました。
ステラカイギュウの事を調べていて、涙が出ました。
遭難した時に自分たちが命拾いしたのは、ステラカイギュウのおかげじゃないですか!
感謝してこそなのに、絶滅させてしまうとは!
人間の愚かさを思い知りました。
本当に動物たちにお詫びし、愚かさを反省しないと、と痛感しました。
アイヌの方たちが、こうして何年も人知れず彼らの為に「鎮魂祭」を行なって来て下さっている事に、頭が下がります。
今年は、私たちもそのお手伝いが出来た事で、少しでも償いになれたらと思います。
絶滅させてしまった動植物たちは、もう蘇らせることは出来ませんが、絶滅危惧種の動植物たちを守ることは私たちに残された課題です。
特に今、辺野古や奄美大島のジュゴンたちが危険にさらされています。
★辺野古 美しい海を守れ!
★美しい奄美大島を守ろう!
過去を学び、同じ過ちを犯さない為にも、ひとりひとりが何が出来るかを考えたいです。
人間が出来ることは、自然の循環を妨げないようにそっと手を貸し守ること。
動植物たちに、人間がいてくれて良かったね!と思われるようになりたいです。