青森の「三内丸山遺跡」に行ったお話の続きです⬇︎
日本最大級の縄文遺跡
「三内丸山遺跡」には、大型竪穴式住居や
高床式建物の他に
茅葺き、樹皮葺き、土葺きの竪穴式住居も復元されていました。
しかし、あの復元された六本柱建物ですが、見つかった6つの穴は、敷地内の1番隅にありました。
でも、縄文時代でもあの柱はシンボルタワーだったはずで、住居の中心でなければならないと思うのです。
とすると、遺跡の眠っている場所は、もっと広範囲に渡ると想像できますし、地下深くにも色々存在するものがあるでしょう。
さらに、この六本柱、夏至には3本の柱の間から太陽が昇り、冬至には3本の柱の間に夕陽が沈む造りになっているんだそうです。
ストーンヘンジのように太陽信仰は世界共通ですね。
また、この時代には子供を葬る場合と大人を葬る場合とははっきりと区別されていたようです。
子供の墓は、人が良く通る住宅のすぐ近くにあり、大人の墓は住宅から谷を隔てた場所に設けられていました。
そして、子供の亡がらは土器に入れて埋められてあるのに対して、大人の場合は手足を折って屈葬し、石を載せている場合が多いそうです。
子どもが亡くなった場合、早く復活するようにと住居の入り口近くにツボに入れて埋葬するというアイヌ民族は、縄文からの習わしを継いでいたのでしょう。
環状配石墓も見つかっており、この墓はムラ長の墓と考えられているようですが、ガイドさんは縄文時代は上下関係がなく皆平等であったから、何かの特技に秀でた人のお墓では?と話してました。
また、遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることが分かったそうです。
これは、縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものです。
日本最大の板状土偶などの土製品や
交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠なども出土しています。
翡翠は糸魚川でしか産出されないので、他地域との交易が証明されました。
また平底の円筒土器や
けつ状耳飾りなどは
遼河文明(中国の古代文明)との類似性が指摘されています。
針葉樹の樹皮を編んだポシェットも出土していますが、完全な形での出土は非常に貴重であるそうです。
この編み方は、現代でも使われています。
遺跡内には、「盛り土」があり幾重にも土器のカケラが埋まっていたそうです。
これは実際のものです⬇︎
これは土器の「貝塚」とも言えるもので、決して土器のゴミ捨て場ではないのです。
「貝塚」は、貝も骨も丁寧に並べられて、盛り土をされた場所であり、再びこの世に戻ってくるようにとの願いを込めた祭祀の場所であると考えられるようになって来ました。
土器の盛り土の中にも、翡翠が出て来たり、祭祀の時に火を燃やしたであろう赤い土も現れました。
⬇︎この「北の谷」と呼ばれる湿地帯では、水分が豊富な為、通常残らないような骨や種や漆器や寄生虫の卵まで出土したそうです。
これほどまでに、様々なものが出土している縄文時代の遺跡ですが、出土していないものがありました。
それが争いに使われる武器。
さらには「外敵」を意識した柵やお堀のような囲い。
この事からも、三内丸山に暮らしていた人々は、絶対的な権力による支配ではなく、自然と調和し、命を大切に育み、緩やかに共存して来たであろう姿が想像されます。
これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎になっています。
一因として、気候の寒冷化などが挙げられていますが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されています。
4,200年前に世界は急激に寒冷化し、中国の長江周辺,西アジアのメソポタミアなど世界の文明においても,ほぼ同じ時期の衰退が報告されています。
何らかの天変地異や大洪水が起こった可能性もあります。
ですが、衰退に至るまでの縄文時代には学ぶところが多いと感じました。
今回の旅では寄れなかったのですが、青森県つがる市に、JR五能線「木造駅」という一風変わった駅舎があるそうです。
そう、あの「亀ヶ岡遺跡」の「遮光器土偶」がモチーフになっているのです。
しかもこの「しゃこちゃん」、目の部分が時々光り、「いらっしゃいビーム」を発射するというではありませんか!!
駅舎が土偶で目からビーム!?子どもがおびえた「ふるさと創生」、衝撃の木造駅
確かに、夜に光ったら不気味かも。。(笑)
ああ、時間があったら行きたかったです。
何しろ私、これまで何人かの方に「目からビームが出ていた!」と言われた事があるのです(笑)
と言っても、決して怖い人じゃないですよ!
仲間に会うような感じでしゃこちゃんに親しみを感じます。
もちろん、亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶にもいつかお目にかかりたいです。
その為には、また青森に行かなくっちゃね。