27日から山口県に行き「卑弥呼の謎」に触れる旅をして来ました。
山口県が卑弥呼と関わりがあったなんて、全くの盲点でした!!
私が「邪馬台国」に興味を持ったのは、さだまさしさんが「まぼろしの邪馬台国」の作者である宮崎康平氏とお知り合いだと知ったからです。
まぼろしの邪馬台国 ①
まぼろしの邪馬台国 ②
さださん若いっ↓歌がこれまたステキなんです。
そして、卑弥呼の事はこれまでも何度か記事にして来ましたが、卑弥呼と対峙していた狗奴国の王「卑弥弓呼」の墓ではないかと言われる「高尾山古墳」を何故だか救うことにもなりました。
沼津の「高尾山古墳」が保存される事になりました!
そして、ここに来てまさかの山口県!
何故に卑弥呼は私を呼んだのでしょう。
ご縁があるのかないのか分からないまま、卑弥呼の謎に引き込まれて行く私なのでありました。
事の発端は、2008年にせつ子さんがアメリカの遠隔透視能力者ジョー・マクモニーグルと日本のセミナーで会った時に、彼女にだけ「この本を読んでおくように!」と一冊の本が手渡された事から始まったのです。
元々山口県に土地を持つせつ子さんとご主人かっちゃんは、それからマクモニーグルの透視の検証をされ、卑弥呼の墓や祭祀を行っていた場所などを探し当てたのでした。
そして今回、山口県内で卑弥呼と関わりのある場所に私を案内して下さったのです。
そもそも、これまで卑弥呼が治めていた「邪馬台国」がどこにあったのか分からず、畿内説・九州説ともめて来たのは、「魏志倭人伝」に書かれている方位と合わなかったからなのです。
実は「魏志倭人伝」では、日本列島を南北逆さまに認識しているようなのです。
そうすると、奈良県纏向(まきむく)付近が東シナ海付近になり、福建省福州市の真東に位置するようになり、方位、距離ともに矛盾なく収まるのです。
さらに、邪馬台国に敵対した狗奴国は、邪馬台国の南にあったとされていますが、日本列島を逆さまにするとこの謎も解けるのでした。
300年にわたって論争を呼んできた「まぼろしの邪馬台国」も、ようやく奈良県「纒向遺跡」で落ち着き、卑弥呼はその遺跡の中の「箸墓古墳」に眠っているとの見方が有力になっていました。
ところが、ムーの編集長がマクモニーグルに「卑弥呼の墓の遠隔透視」を依頼した事から、誰もが予想し得ない意外な結果が導き出されたのです。
アメリカにいるマクモニーグルから、最初の遠隔透視で送られて来た地図の一枚です⬇︎
これは、山口県の地図である事が容易に分かります。
何と、卑弥呼は山口県長門市の黄波戸駅近くで生まれたそうです。
↑せつ子さんご夫婦に連れて行って頂きました。
さらにマクモニーグルは、卑弥呼の詳細な似顔絵まで送って来ています。
身長157センチで体重55.3キロ、71〜73歳くらいまで生きたと言い、南方系の容姿です。
マクモニーグルによると、卑弥呼の先祖はヤマト族と言い、ベトナムや台湾、奄美大島を経由して、最初は九州から日本列島に上陸してきたと言います。
卑弥呼は、生涯独身で子供もいなかったそうです。
そして、3回目の透視の結果、卑弥呼は夏と冬で全く別々の場所に住んでいた事が分かりました。
つまり、「夏の居城」は三輪山に近い奈良県桜井市の鳥見山にあったそうで、やはり纒向遺跡あたりが「邪馬台国」の中心地と見て間違いなさそうです。
そして、「冬の居城」は山口県下関市にある豊田湖湖畔にあったと言います。
ここを拠点として、生まれ育った長門にも行き来していたようです。
卑弥呼は、女王として倭国を統治する為、夏の間だけ畿内にまで足を運んでいたと思われます。
そして寒くなると、出身地の「冬の居城」に戻っていたようです。
ところが、卑弥呼は宿敵「狗奴国」と激しく戦い、疲弊して山口で休んでいた寒い冬の日に、肺炎にかかって亡くなったとマクモニーグルは透視しています。
そして、「冬の居城」のすぐそばに葬られたというのです。
なので、卑弥呼の墓は奈良県の箸墓古墳ではないのです。
では、卑弥呼の墓は一体何処にあるのでしょうか。
その場所は、マクモニーグルの透視による2枚の地図からすぐに判明したのでした。
あなたも是非、この地図で「卑弥呼の墓」を探し当ててみて下さい。
誰もが想像し得なかった驚愕の真実が今、明らかになります!
(分かっても内緒にしててね。)
続く。。