『がん治っちゃったよ全員集合in 東京』に行って来られたJoyカップの高橋さんから情報を頂きました。
◆エロこそ生命力!
◆ガンになったら最初にすること
彼女の記事の中で、杉浦貴之さんの『命はそんなにやわじゃない』の本の事を知りました。
《内容紹介》
がん余命半年からの生還。
それは決して奇跡ではなかった。
「24時間テレビ」「奇跡体験!アンビリバボー」「誰も知らない泣ける歌」「ラジオビタミン」等に出演した話題の著者!
決して闘病記ではない。がんを道標として、新たな自分(本当の自分)に生まれ変わる再生記。
悩み、苦しみ、迷いながら、それでも生きることをあきらめず、命あることを歓び、つねに笑いを求め、逆境をも楽しみながら再生していくストーリー。
【著者が自らの体験から気づいた「元気になるコツ」】
◎元気になるのを待つのではなく、まずは動いて、元気が後からついてくる
◎自分のためだけでなく、誰かのために元気になろうと決める
◎辛かったこと、苦しかったこと、悔しかったことを人に話すこと。決して一人で抱えない
◎5年生存率は、大学受験と同じと考える。治ることにも、すべてに理由がある
◎治療、辛い入院生活をチャレンジと捉える。逆境の中でも楽しみを見つける
◎異性にときめく心、そしてエロは、生きる源と知ること
◎戦って追い返すのではなく、「なぜ、がんがやってきたのか?」を深く見つめ、がんの必要のない環境を作っていく
◎抑えつけていた自分の本当の思いを解き放つこと
◎「治す」ことを目的にするのではなく、「治った」後どんな夢を叶えたいか、または治しながらどんな夢を叶えていきたいか、そこをイメージする
杉浦貴之さんについて
命のマガジン『メッセンジャー』編集長、シンガーソングライター。
1971年5月29日、愛知県西尾市出身、岡崎市在住。
28歳にして、がんを宣告され、両親には余命は「早くて半年、2年後の生存率0%」と告げられた。
しかし、病床で「がんを絶対に治す」と決意。
入院中は、大学時代に1度走ったホノルルマラソン出場を夢に描く。
また、ゴールに婚約者を立たせ、ゴールの瞬間に抱き合って喜び、次の日にハワイの教会で結婚式を挙げるという無謀な夢の続きを毎日描いていた。
退院後、がんはメッセージであり、本当の自分らしい生き方を示してくれる道標と捉え、がんになった原因と意味、本当の自分とは何かを求め、旅に出る。
2005年、移住した宮崎で、自分ががん克服者に出会って元気をもらったように、多くの人を元気づけようと、がん克服者や命と向き合っている人の思いを載せた、命のマガジン『メッセンジャー』を創刊し、編集長兼発行人となる。
同年12月、ホノルルマラソン出場。
このとき婚約者はおらず、半分の夢が叶う。
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった」を実感。
2008年12月、病気後2度目のホノルルマラソン出場。このときはゴールで婚約者と抱き合い、翌日、夢に描いたとおり、ホノルルの教会で結婚式を挙げた。
2009年、第一子である長女、芽(いぶき)が誕生。
現在は愛知県岡崎市に住み、トーク&ライブ、病院や学校、そして企業での講演、『メッセンジャー』の取材と全国を駆け回っている。
「生きていることの素晴らしさを教えてもらいました」など、雑誌や講演の感想が多数寄せられている。
2010年からは、がん患者さん、家族、サポーターを集め、「命はやわじゃない!がんサバイバーホノルルマラソンツアー」を主宰。その模様はTVでも紹介される。
その他にも、フジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー」日本テレビ「誰も知らない泣ける歌」など、これまでにマスコミに多数紹介される。
自ら作詞をする、オリジナルCD「Life is strong」も発売。
『メッセンジャー』『チームメッセンジャー』HPhttp://www.taka-messenger.com
<転載終わり>
杉浦貴之さんのHPより抜粋
【ちょっとした自分史】
1999年10月1日、僕は28歳にして、腎臓がんを宣告されました。
PNET (未分化原始神経外胚葉性腫瘍)というがんが僕の腎臓にできていたそうです。
PNETは主に5歳以下の子がかかる場合が多く、大脳にできやすいものなのだそうです。
腎臓にできたケースは、当時日本で20例ほどしかなく、2年以内に生きているデータはなかったそうです。
当然、両親には余命宣告がされました。
「早くて半年、2年後生きている可能性は100%ない」。
短期間に著しく増殖し、分かったときは腎臓を覆うほどの大きさでした。
同年10月14日、左の腎臓を摘出。その後、抗がん剤治療を2クール(2ヶ月間)。
しばらく落ち込んでいたものの、両親が僕の葬式で涙を流している夢を見た翌朝、このままでは終われないと、力強く起き上がりました。
がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。
がんの原因を作った“習慣(体、心、生活)”を正す旅。
それは決して闘病記でなく、新たな自分に生まれ変わる“再生記”でした。
かなづちの僕は、三途の川も溺れて対岸にたどり着けず、医師からの絶望的な言葉もサプリメントに変えて、ここまでやってきました。
5度にわたる腸閉塞も、その痛みや鼻から腸まで通す管は、本物のナースのSMプレイと自分に言い聞かせ、快楽を楽しんできました。
あっ、うそです。レントゲン撮影のときに、ピースをして怒られたこともありました。(プリクラじゃないっ!!)。♪レントゲン写真のあのひとは~♪
笑えるようで、笑えない話はこの辺でやめておきます。
あの日から、はや約16年の月日が流れました。
再発もなく、今はめっちゃ元気です! がんになる前より健康で、幸せです!!
今までを振り返れば、楽しいことばかりではありませんでした。
むしろ、辛くて泣くことのほうが多かったです。
それでも、闇の果てに光あることを信じ、悲しみの先に喜びあることを信じ、涙の先に笑顔あることを信じ、何があっても自分を信じ抜いてここまでやってきました。
そしてぼくの場合、ファイティングスピリットを持って病気に立ち向かっていっても、長くは続きませんでした。
疲労困ぱい、スタミナ切れ。
ならば、楽しむスピリットを持ってロマンスに向かっていく、これがぼくの生きてきた道です。
もちろんこれからも!楽しむことに限界はない!
ワクワク生きても、クヨクヨ生きても、人生はいつか終わります。
どうせならワクワク生きます!生きることが許される限り、今を一生懸命生きていきたいです。
最後に、このホームページを訪れた人が、ささやかでも勇気と元気を持ち帰ってくれたら、本当にうれしいです。
HPより抜粋
【腎臓がんに】
就職して6年半後の28歳の秋、1999年10月。腎臓がん宣告。
ど根性ガエルのぴょん吉のごとく、飛び出してくるような勢いの腫瘍が眼前のボードに映し出されたのです。
「早期発見ですか?」と見るからにそうではないとは思いつつも、最後の望みを掛けて訊ねる私に、主治医は明らかに次の言葉が出ずに困っている様子でした。
先日、母親から聞いたのですが、「余命は早くて半年、よくもって2年」と告げられていたようです。
ある日、母親がぼくのことを生きているのが不思議だと言っていた理由が分かりました。
私の腎臓がんが分かる2年前に同級生の友人をがんで亡くし、そのときに健康食品でがんが治るという本を読んだことがあって、その細い糸をたぐって這い上っていくことができました。
しかし彼の壮絶な最期を見ていたので、度々恐怖にも襲われました。
手術のあと2度の化学療法。きつかった。
それでも病院を抜け出し、化学療法で毛の抜けた頭を帽子で隠し、悪友と男が喜ぶ店に行ってしまいました。これ以上話せませんが(笑)、かなりの自信になりました。
そこで出会った女性はがんを克服した女性で、かなり勇気をもらう。
いろんなところに縁というものあるものです。人生に無駄はない!ただし良い子は真似をしないように。
病院では感謝の涙ばかりでました。
まわりの支えが本当にありがたかったです。
絶望の中にいたぼくを救ってくれたのは・・・・・
ぼくをこの世に産み出してくれた両親だった。ぼくを育ててくれた両親でした。
「自分の命に変えてでも、貴之を助けたい」・・・
言葉ではなく、両親の姿から、そんな思いがぼくに伝わってきたのです。
「私は息子を信じます!余命宣告なんて絶対に信じません」母は、そう主治医に啖呵を切りました。
ある人が私を見てこう言いました。
「あなたに対するまわりの愛がコップに溢れて、それがあなたの生きる力を目覚めさせたのだよ」と。
【決意】
ぼくはそれまで、親の期待に応えよう、いい子でいようと思って生きてきた。
長男のぼくは、「海外を飛び回る仕事がしたい」という夢をしまい込み、地元の高校、地元の大学をストレートで卒業。就職したのは、家から10分のところにある会社。
だれよりも親孝行をしていると思っていた。間違いだった。ぼくの勘違いだった。
「ぼくが生きているだけで、お父さん、お母さんは嬉しかったんだね~!ぼくは生きているだけで、お父さん、お母さんに幸せを与えていたんだね。ごめんね、気づかなくて」
「生きているだけで素晴らしいんだ、ぼくたちは生きてるだけで祝福されている!」
そう気づけた瞬間、ぼくは変わった。
「自分で作った病気は自分で治せる。絶対にこの病気を治してやる!」ぼくの心にスイッチが入りました。
「このままでは絶対に終われない!」「絶対に終わらない」・・・・ぼくは力強く起き上がる。
がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。
自分の中に「がんを治すスイッチ」が入る。
そして、「がんを治す」だけじゃなくて、「今、幸せになろう」って思った。
たった一度の人生、思いっきり好きなように生きてやろう!「やらずの後悔」なんて、もうごめんだ。
「未来の幸せ」のために、「今苦労する」のもごめんだ。
今、幸せになろう!今を楽しもう!
以来、ぼくは動き回りました。
感じたら動いた。体の全細胞に声を掛けながら。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫!お前は元気になる」。
<抜粋終わり>
2年後の生存率ゼロの余命宣告を受けた貴之さんが、こうして元氣になられたのは、命を決してあきらめなかったから。
真剣にガンと向き合い、ガンが何のメッセージをくれているのか考えたから。
そして、その原因を突き止め手放してガンに、そしてまわりの人々に、あらゆることに感謝したのです。
もし、今、絶望の淵におられる方がいらしたら、是非、彼の本を手に取ってみて下さい。
生きる希望が見出せますように。。
〈オマケ〉
私が好きなboketeネタ↓
◆エロこそ生命力!
◆ガンになったら最初にすること
彼女の記事の中で、杉浦貴之さんの『命はそんなにやわじゃない』の本の事を知りました。
- 命はそんなにやわじゃない/かんき出版
- ¥1512
- Amazon.co.jp
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がん余命半年からの生還。
それは決して奇跡ではなかった。
「24時間テレビ」「奇跡体験!アンビリバボー」「誰も知らない泣ける歌」「ラジオビタミン」等に出演した話題の著者!
決して闘病記ではない。がんを道標として、新たな自分(本当の自分)に生まれ変わる再生記。
悩み、苦しみ、迷いながら、それでも生きることをあきらめず、命あることを歓び、つねに笑いを求め、逆境をも楽しみながら再生していくストーリー。
【著者が自らの体験から気づいた「元気になるコツ」】
◎元気になるのを待つのではなく、まずは動いて、元気が後からついてくる
◎自分のためだけでなく、誰かのために元気になろうと決める
◎辛かったこと、苦しかったこと、悔しかったことを人に話すこと。決して一人で抱えない
◎5年生存率は、大学受験と同じと考える。治ることにも、すべてに理由がある
◎治療、辛い入院生活をチャレンジと捉える。逆境の中でも楽しみを見つける
◎異性にときめく心、そしてエロは、生きる源と知ること
◎戦って追い返すのではなく、「なぜ、がんがやってきたのか?」を深く見つめ、がんの必要のない環境を作っていく
◎抑えつけていた自分の本当の思いを解き放つこと
◎「治す」ことを目的にするのではなく、「治った」後どんな夢を叶えたいか、または治しながらどんな夢を叶えていきたいか、そこをイメージする
杉浦貴之さんについて
命のマガジン『メッセンジャー』編集長、シンガーソングライター。
1971年5月29日、愛知県西尾市出身、岡崎市在住。
28歳にして、がんを宣告され、両親には余命は「早くて半年、2年後の生存率0%」と告げられた。
しかし、病床で「がんを絶対に治す」と決意。
入院中は、大学時代に1度走ったホノルルマラソン出場を夢に描く。
また、ゴールに婚約者を立たせ、ゴールの瞬間に抱き合って喜び、次の日にハワイの教会で結婚式を挙げるという無謀な夢の続きを毎日描いていた。
退院後、がんはメッセージであり、本当の自分らしい生き方を示してくれる道標と捉え、がんになった原因と意味、本当の自分とは何かを求め、旅に出る。
2005年、移住した宮崎で、自分ががん克服者に出会って元気をもらったように、多くの人を元気づけようと、がん克服者や命と向き合っている人の思いを載せた、命のマガジン『メッセンジャー』を創刊し、編集長兼発行人となる。
同年12月、ホノルルマラソン出場。
このとき婚約者はおらず、半分の夢が叶う。
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった」を実感。
2008年12月、病気後2度目のホノルルマラソン出場。このときはゴールで婚約者と抱き合い、翌日、夢に描いたとおり、ホノルルの教会で結婚式を挙げた。
2009年、第一子である長女、芽(いぶき)が誕生。
現在は愛知県岡崎市に住み、トーク&ライブ、病院や学校、そして企業での講演、『メッセンジャー』の取材と全国を駆け回っている。
「生きていることの素晴らしさを教えてもらいました」など、雑誌や講演の感想が多数寄せられている。
2010年からは、がん患者さん、家族、サポーターを集め、「命はやわじゃない!がんサバイバーホノルルマラソンツアー」を主宰。その模様はTVでも紹介される。
その他にも、フジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー」日本テレビ「誰も知らない泣ける歌」など、これまでにマスコミに多数紹介される。
自ら作詞をする、オリジナルCD「Life is strong」も発売。
『メッセンジャー』『チームメッセンジャー』HPhttp://www.taka-messenger.com
<転載終わり>
杉浦貴之さんのHPより抜粋
【ちょっとした自分史】
1999年10月1日、僕は28歳にして、腎臓がんを宣告されました。
PNET (未分化原始神経外胚葉性腫瘍)というがんが僕の腎臓にできていたそうです。
PNETは主に5歳以下の子がかかる場合が多く、大脳にできやすいものなのだそうです。
腎臓にできたケースは、当時日本で20例ほどしかなく、2年以内に生きているデータはなかったそうです。
当然、両親には余命宣告がされました。
「早くて半年、2年後生きている可能性は100%ない」。
短期間に著しく増殖し、分かったときは腎臓を覆うほどの大きさでした。
同年10月14日、左の腎臓を摘出。その後、抗がん剤治療を2クール(2ヶ月間)。
しばらく落ち込んでいたものの、両親が僕の葬式で涙を流している夢を見た翌朝、このままでは終われないと、力強く起き上がりました。
がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。
がんの原因を作った“習慣(体、心、生活)”を正す旅。
それは決して闘病記でなく、新たな自分に生まれ変わる“再生記”でした。
かなづちの僕は、三途の川も溺れて対岸にたどり着けず、医師からの絶望的な言葉もサプリメントに変えて、ここまでやってきました。
5度にわたる腸閉塞も、その痛みや鼻から腸まで通す管は、本物のナースのSMプレイと自分に言い聞かせ、快楽を楽しんできました。
あっ、うそです。レントゲン撮影のときに、ピースをして怒られたこともありました。(プリクラじゃないっ!!)。♪レントゲン写真のあのひとは~♪
笑えるようで、笑えない話はこの辺でやめておきます。
あの日から、はや約16年の月日が流れました。
再発もなく、今はめっちゃ元気です! がんになる前より健康で、幸せです!!
今までを振り返れば、楽しいことばかりではありませんでした。
むしろ、辛くて泣くことのほうが多かったです。
それでも、闇の果てに光あることを信じ、悲しみの先に喜びあることを信じ、涙の先に笑顔あることを信じ、何があっても自分を信じ抜いてここまでやってきました。
そしてぼくの場合、ファイティングスピリットを持って病気に立ち向かっていっても、長くは続きませんでした。
疲労困ぱい、スタミナ切れ。
ならば、楽しむスピリットを持ってロマンスに向かっていく、これがぼくの生きてきた道です。
もちろんこれからも!楽しむことに限界はない!
ワクワク生きても、クヨクヨ生きても、人生はいつか終わります。
どうせならワクワク生きます!生きることが許される限り、今を一生懸命生きていきたいです。
最後に、このホームページを訪れた人が、ささやかでも勇気と元気を持ち帰ってくれたら、本当にうれしいです。
HPより抜粋
【腎臓がんに】
就職して6年半後の28歳の秋、1999年10月。腎臓がん宣告。
ど根性ガエルのぴょん吉のごとく、飛び出してくるような勢いの腫瘍が眼前のボードに映し出されたのです。
「早期発見ですか?」と見るからにそうではないとは思いつつも、最後の望みを掛けて訊ねる私に、主治医は明らかに次の言葉が出ずに困っている様子でした。
先日、母親から聞いたのですが、「余命は早くて半年、よくもって2年」と告げられていたようです。
ある日、母親がぼくのことを生きているのが不思議だと言っていた理由が分かりました。
私の腎臓がんが分かる2年前に同級生の友人をがんで亡くし、そのときに健康食品でがんが治るという本を読んだことがあって、その細い糸をたぐって這い上っていくことができました。
しかし彼の壮絶な最期を見ていたので、度々恐怖にも襲われました。
手術のあと2度の化学療法。きつかった。
それでも病院を抜け出し、化学療法で毛の抜けた頭を帽子で隠し、悪友と男が喜ぶ店に行ってしまいました。これ以上話せませんが(笑)、かなりの自信になりました。
そこで出会った女性はがんを克服した女性で、かなり勇気をもらう。
いろんなところに縁というものあるものです。人生に無駄はない!ただし良い子は真似をしないように。
病院では感謝の涙ばかりでました。
まわりの支えが本当にありがたかったです。
絶望の中にいたぼくを救ってくれたのは・・・・・
ぼくをこの世に産み出してくれた両親だった。ぼくを育ててくれた両親でした。
「自分の命に変えてでも、貴之を助けたい」・・・
言葉ではなく、両親の姿から、そんな思いがぼくに伝わってきたのです。
「私は息子を信じます!余命宣告なんて絶対に信じません」母は、そう主治医に啖呵を切りました。
ある人が私を見てこう言いました。
「あなたに対するまわりの愛がコップに溢れて、それがあなたの生きる力を目覚めさせたのだよ」と。
【決意】
ぼくはそれまで、親の期待に応えよう、いい子でいようと思って生きてきた。
長男のぼくは、「海外を飛び回る仕事がしたい」という夢をしまい込み、地元の高校、地元の大学をストレートで卒業。就職したのは、家から10分のところにある会社。
だれよりも親孝行をしていると思っていた。間違いだった。ぼくの勘違いだった。
「ぼくが生きているだけで、お父さん、お母さんは嬉しかったんだね~!ぼくは生きているだけで、お父さん、お母さんに幸せを与えていたんだね。ごめんね、気づかなくて」
「生きているだけで素晴らしいんだ、ぼくたちは生きてるだけで祝福されている!」
そう気づけた瞬間、ぼくは変わった。
「自分で作った病気は自分で治せる。絶対にこの病気を治してやる!」ぼくの心にスイッチが入りました。
「このままでは絶対に終われない!」「絶対に終わらない」・・・・ぼくは力強く起き上がる。
がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。
自分の中に「がんを治すスイッチ」が入る。
そして、「がんを治す」だけじゃなくて、「今、幸せになろう」って思った。
たった一度の人生、思いっきり好きなように生きてやろう!「やらずの後悔」なんて、もうごめんだ。
「未来の幸せ」のために、「今苦労する」のもごめんだ。
今、幸せになろう!今を楽しもう!
以来、ぼくは動き回りました。
感じたら動いた。体の全細胞に声を掛けながら。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫!お前は元気になる」。
<抜粋終わり>
2年後の生存率ゼロの余命宣告を受けた貴之さんが、こうして元氣になられたのは、命を決してあきらめなかったから。
真剣にガンと向き合い、ガンが何のメッセージをくれているのか考えたから。
そして、その原因を突き止め手放してガンに、そしてまわりの人々に、あらゆることに感謝したのです。
もし、今、絶望の淵におられる方がいらしたら、是非、彼の本を手に取ってみて下さい。
生きる希望が見出せますように。。
〈オマケ〉
私が好きなboketeネタ↓