あれから2年。またこの日がやって来ました。
日本人にとって、絶対に忘れる事が出来ない日。みなさまはどんな想いで今日を過ごされるのでしょうか。
久々に原発記事です。田中龍作ジャーナルさんより転載します。
http://tanakaryusaku.jp/2013/03/0006781
全国各地で「ノーモア・フクシマ」
3月10日の日曜日、全国各地で脱原発集会が開かれている。ネット情報によれば、200数十ヵ所にのぼる。
立地県でなくても、原発は一度事故が起きれば生活が脅かされる。平穏で健康な暮らしを望む市民たちが「ノーモア・フクシマ」を叫んで立ち上がっているのだ。
国会・霞が関周辺では「すべての原発の廃炉を求める」集会とデモが開かれた。(「3・10原発ゼロ大行動」主催:首都圏反原発連合)
集会場の日比谷野音は立錐の余地もないほどの人々で埋まった。満席なんてものではない。通路も人で一杯となったため、分け入ることさえできないのだ。入場規制となった。
きょうは日比谷公園内のあちこちで原発を考え直そうというイベントが催され、公園は脱原発一色に染まった。
http://tanakaryusaku.jp/2013/03/0006775
原発事故から2年・大集会 「無政府状態の日本に住まわされている」
あの惨劇からちょうど2年が経つ。
「原発事故を風化させてはならない」と福島の被災者や全国各地で原発反対運動に携わる人たちが9日、明治公園で集会を開き、渋谷までデモ行進した。
会場には「反原発NGO」「平和団体」などのノボリが林立し、ブースが並んだ。
「原発を問う民衆法廷」のブースにいた村田弘さん(写真)は、南相馬市からの避難者だ。広い農家に住んでいた村田さんだが、避難先の横浜で慣れないアパート暮らしが続く。
「2年経って政府の対応は“ひどい”の一言に尽きる。自分がかつて住んでいた所は“避難区域”から“避難解除準備区域”に変更になった。放射能の状態は変わっていないのに政府は(区域の)指定だけ変えた…(中略)人間の最低の安全を守るのが国というものなら、日本は国じゃない」。
憤りを抑えきれないようすで村田さんは話を続けた。「家は地震・津波の被害に遭っていない。意地でも戻りたいと思っている。帰って現状を伝えたい。証言者になりたい」。
原発事故が起きたのは、桜の花びらが開く直前だった。「1回目の桜は錯乱状態、2回目は怒り、3回目の今年は淋しい」。村田さんは眼差しを遠くに置きながら話した。
「果樹園をやってたんだが、やれなくなったので腕が細くなったよ」
原発推進派が圧倒的多数を占める双葉町議会から不信任決議された井戸川克隆前町長も、原発事故の犠牲者だ。ステージに上り政治の貧困を訴えた。
「放射能のある環境で育つ子どもと、放射能のない環境で育つ子どもが平等でしょうか。憲法で保証された人権というものが確立されているとお思いでしょうか。とんでもない無政府状態の日本に住まわされている思いです」。
井戸川前町長は住民の健康被害に焦点を絞ってスピーチを続けた。
「チェルノブイリの状況を27年後の福島にもって来ようとしている勢力に対して、声を大にして“とんでもない、お前たちは職責から離れろ”と言いたい」。
作家の大江健三郎さんも原発推進勢力への反発を隠さなかった。
「フクシマをなかったことにしようとする“連中”とは戦う」「1台の原発も再稼働させない」。
筆者は“連中”という言葉にドキッとした。
原発事故からまだ2年しか経っていないにも拘らず首相は再稼働を口にし、環境大臣は審議会から脱原発派を除外する。
チェルノブイリと並ぶ原子力史上最悪レベルの事故などまるでなかったかのようだ。
ノーベル文学賞受賞者はあえて下卑た言葉を使い「歴史に学ぶことを忘れた」民族に警鐘を鳴らしたのではないだろうか。
<転載終わり>
小出裕章氏のお話・インターネットラジオ【ペイフォワード環境情報教室】より
http://kiikochan.blog136.fc2.com/?no=2819からのまとめ
原子力を止めるためにまだ働けるかもしれない
Q. 原発からの「核のゴミ」はどう扱って行ったらいいのか。
小出氏:誰もどうしていいか分からない。
人間が原子炉を動かしたのは、米国という国がマンハッタン計画という“原爆製造計画”を立てて、その中で「長崎原爆の材料にするためのプルトニウムを生み出したい」という動機で原子炉を初めて動かした。
元々、原子炉というのは発電ではなく、原爆材料を生み出すための道具だった。
どうしても原爆を作りたいとそれを動かしてしまったが、動かしてしまえば、核分裂生成物という放射性物質が出来てしまう訳で、その当時から「なんとかその生み出した放射性物質を消さなければ大変なことになる」という事が分かっていた。
すぐに研究も始まり70年が経つが、「いずれ科学の進歩によって、良い手段が見つかるだろう」と思い続けながら来たのだが、残念ながらいまだに、「生み出した放射性物質を消す力」を人間は持っていない。
そうなれば仕方がない。他に隔離をするしかないという事で、その隔離の手段もさまざまに考えられてきた。
「宇宙に捨ててしまおう」という案もあったが、捨てるためのロケットが失敗して落ちてきた時には取り返しがつかなくなる為、技術的に出来ないという事になった。
その他、「深海の底に埋める」「南極に捨てる」など、様々な案があったが、どれも「これなら大丈夫」と確信を持てるような案ではなかった。
そのため今現在「仕方がないのでどこか地底に埋めよう」という事になっている。
日本でも「地底に埋める」という案が、唯一の案として法律で既に決まっている。
しかし日本というのは世界一の地震国で、「安定な地下」などなく、昨年の9月11日には、日本学術会議という学者の国会とも言うべき団体が、「地下に埋め捨てにする事はやはり正しくない」という提言を出した。
どこの国もどうしていいのかが分からない状態で、最近になってフィンランドやスウェーデンという国々が「やはり地底に埋めるしかない」という事で、フィンランドはようやくその埋め捨てにする場所を確定した。
しかし本当に出来るかという事を考えると、私自身はまだまだ難しいだろうと思っている。
Q. 自民党政権は、基本的に原発の再稼働を進める形で動いており、再稼働の要件として安全審査が行われるが、日本の原発という立地自体が活断層の上、もしくはすぐ近くに立地しているというのが歴然たる事実。
それでもまだ「安全」とされてしまうのか?
小出氏:日本という国は世界一の地震国。
地球はプレートが動いているが、そのプレートがちょうどぶつかり合う場所に日本はあり、安定している場所などどこにもない。
そんな国に原発を50基を超えてつくってしまった。
世界からみれば大変異常な事なのに、いまだにそれを反省しないで、まだ原子力をやるという事を考えている人がいる。本当にあきれた話。
Q. 政府の各種委員会から脱原発派と呼ばれる方々が、メンバーから外されている。
311以降、市民の活動も増えて来ているが、2年経ってもなかなか結果が出ないと憤りがある。長年反原発として活動されてきた小出先生から見て、311以降に変化はあったか?
小出氏:私自身は40年以上原子力を止めさせたいと思って活動してきたが、私の力などは、国家や巨大産業、マスコミといったグルになった力の前からすれば、「全く無力」であった。
原子力を止める事が出来ないまま、福島の事故が起きてしまった。
自分の人生はいったい何だったのかと思わないではいられず、今現在苦難のどん底に突き落とされている方々が沢山いるのを思うと、本当に「無念」の一言。
事故が起こってからは、多くの人達が原子力の問題に気がついて、私の話なども聞いて下さるようになったが、それよりも事故がなかった方が良かった。
沢山の人々が会場に来て下さっても、私は全く嬉しいとは思わないで今日まできた。
しかし、つい最近ちょっと私の中で思う事が変わってきた。
というのは、事故から2年経って、国の方はもう「福島の事故は忘れさせようとする」戦術に出てきて、マスコミも福島の事を報道しない。
いまだに沢山の人が苦難のどん底にいるという事についても報道しない。
しかし「忘れない」「決して忘れない」という人たちが、日本中のあちこちにいて、私の話しを聞きに来て下さっている。
こういう人たちがまだいてくれるのであれば、私もその人たちと一緒になって、「原子力を止めるためにまだ働けるかもしれない」と思うようになっている。
<まとめ終わり>
事故から2年経っても、こんなにも多くの方々が脱原発集会に集まっています。
政府や原子力ムラの人々は、国民とは全く違う方を向いていますが、私たちが福島の事を忘れない限り、原発はいつか必ず止められると信じています。
津波や地震で亡くなられた方たちのご冥福をお祈りいたします。